|
日本人の、離島に対する認識はまだまだ低いのではないか。島根県の隠岐を、日本海にぽっかり浮かぶ1つの小島と考えている人も少なくないようだ。実際の隠岐は180の島々で構成される群島で、人の住んでいる島は4つある。本土に近い島前(どうぜん)というのは、西ノ島(西ノ島町)、中ノ島(海士町)、知夫里島(知夫村)で構成されており、人口が合わせて約7000人。島後(どうご)というのは群島中最大の島で、平成16年10月1日に、西郷町、都万村、五箇村、布施村が合併して人口およそ1万8000人の「隠岐の島町」が誕生した。
隠岐の自然は豊かで、変化に富んでおり、歴史的にも貴重な史跡が多く残っている。しかし、島の経済は距離的にハンディがあるうえに、有力な産業もなく、長年、公共事業に頼ってきた。いま、隠岐は脱・公共事業を目指して、官民一体となって汗を流し始めている。
人は自分の家で死ぬのがいちばんの幸せだ
隠岐の知夫里島で、素晴らしい女性と出会った。NPO法人「なごみの里」を運営している柴田久美子さんである。
福岡市の特別養護老人ホーム、老人保健施設、有料老人ホームなどで介護福祉士として働いていた柴田さんは、平成10年に、この島に単身で渡ってきた。
「長い間、介護の現場で働いていたのですが、いつも何かが違うという違和感がつきまとっていました」という柴田さんの違和感とは、人間の最期の瞬間があまりにもむごく、非人間的なことだった。
お年寄りがいよいよ弱って、あの世に旅立たなければならなくなると、施設を出されて、病院に移されるのが一般的だ。救急車で搬送された老人は、延命治療のもとに、管でベッドにつながれてしまう。安らかな最期を願う本人にとっても家族にとっても、それはつらい光景である。酸素マスクを当てがわれては、いまはの際に最後の言葉も伝えることもできない。老人医療は手厚い看護を標榜しているが、実は人の死を軽んじているのではないか。
いつしか柴田さんは、人間にはもっと愛に包まれたやさしい死に方があるのではないかと考えるようになった。
人の死に際に関心が高まった柴田さんが、厚生省に問い合わせると、隠岐の知夫村が在宅死亡率が75%と全国一高いことを教えてくれた。
「その事実を知ったとき、私は何の迷いもなく、この島に移住しようと決めたんです。この島に、私が望んでいた大切な仕事があると確信しました」
知夫村の老人自立支援センター「招福園」で働いた後、平成14年に競売に出ていた60坪の元集会場を、なけなしの貯金をはたいて買い求めた。これまで見てきた悲しい最期ではなく、高齢者に敬意と尊敬を払い、家族にみとられて旅立つ場所としてのNPO法人「なごみの里」を立ち上げたのである。
柴田さんは、交通事故で脊髄を損傷した男性と結婚している。結婚以来、柴田さんが働いて、ご主人が家の中の仕事を担当してきた。知夫里島への単身移住については、入退院を繰り返しているご主人も、柴田さんの思いの深さに賛同して快く送り出してくれたという。
「招福園では4年間、ホームヘルパーとして働いたのですが、私は島の高齢者の方々の家を訪問するたびに、その凛とした生き方に接して感動を覚える毎日でした」
92歳だったある女性は、末期がんであることを知りながら、本土に住む娘さんの「一緒に住もう」という申し出を断り、広い家に一人で住んでいた。柴田さんがいつ訪問しても、部屋の中が乱れていることはなかった。庭に咲く花の手入れにも余念がなかった。
「うら(私)はもうすぐ逝くけん、はよう身の回りを片付けんとな」というのがその女性の口癖だった。夜中に激痛に襲われても、人さまに迷惑を掛けるからと島の診療所に連絡しなかった。やがて容態が変わり、本土の病院に搬送された。
柴田さんは、彼女はもう島には戻って来れないだろうと思った。しかし、死の三日前、その人は娘さんと共に島に戻ってきた。
「母親には、この島で最期を迎えさせたいんです」と娘さんは言うのだった。その時、柴田さんは、その母娘の毅然とした決断に、みとりの心構えを教えられたという。
「人々に平等に与えられた運命は、死だけです。死のその時まで、共に生きることこそが愛の行為です。私はいつしか高齢者の方たちを、幸齢者と呼ぶようになりました」と柴田さんは語るのであった。
旅立つ人の手を握り締めてあげよう
知夫村は人口750人ばかりの小さな島である。しかし、この島には人生の最後は自宅で迎えるのがいちばんという慣習が残っていた。子どもたちの多くは本土で生活しているために、このような死の文化も薄れてはきているものの、それでも高齢者は島を離れたがらない。医療設備の整った本土の病院に入っても、死ぬときは死ぬと達観しているようだった。
柴田さんは、村のお年寄りたちの家を訪問するたびに、はっとするような光景を目にした。
94歳だった別の女性宅を訪問すると、いつもその人の手には古い大学ノートが握られていた。亡くなったご主人の闘病日記だった。視力の落ちたその人は、その日記を読んでくれるように柴田さんに頼むのだった。
「彼女は私と一緒に外に出るときは、いつも車いすを仏間の前で止めさせて、まひした右手に左手をゆっくり近づけて、?父ちゃん、行ってくるけん、すぐ帰るからね。ご先祖さま、今日もありがとうございます?と合掌するんです。こんなことも言っていました。?父ちゃんが死んだら、こげな大きな家に一人で暮らすのは寂しいと思っとったけど、本当に父ちゃんが逝ったら、生きていたときよりも父ちゃんが近くにおるようで、この家を離れられんよ?と……」
現代は、膨大な国家予算が福祉につぎ込まれている福祉社会である。にもかかわらず、老人たちが満ち足りた感謝の笑顔で最期を迎えられないのは、日本人の死生観がどこかで違ってしまったからではないのか。柴田さんの頭には、いつもこの疑問がある。
「人生の最期をどこで迎えるかは、本人の選択なんです。私は、この『なごみの里』で最期を迎えたいと希望する人には、息を引き取るまでここにいてもらいます。現在、お預かりしている、あるおばあちゃんは、毎朝、私の顔を見るたびに、?最期まで頼むぞ?とおっしゃるんですよ。
また、自宅に帰りたいという人には、いよいよ危ないとなったときに自宅にお連れします。しかし、家族だけでは最期の瞬間まで面倒を見るのは大変ですから、私たちが通います。一日5回なんて決めていません。泊まりがけでお世話をさせていただきます。そして、お子さんやお孫さんたちに言うんです。間もなく旅立とうとしているおじいちゃんやおばあちゃんの手を握ってあげてください。手を握ってあげれば、幸せな気持ちであの世に行けるし、きっとあなたたちも幸せになりますよと、言うんです」
最期の時が幸せならば、その人の人生は幸せである
「なごみの里」の経営状態は厳しい。現在、全国から来島した6人の有償ボランティアが手伝ってくれているが、1カ月の報酬は11万7000円である。柴田さんに賛同してくれる全国の支援者からさまざまな物品も送られてくるが、それでも台所は火の車だ。それを柴田さんは、自分の講演のギャラや本の印税で補てんしている。
「それでも、ここの入居基準は厳しいんですよ。簡単に誰でも受け入れるわけではありません。入居できる人は、島前の人(知夫村、海士町、西ノ島町)だけです。いざというときに、すぐに家族の方が駆け付けられる距離だからです。それに、家族の人が働いているために、お年寄りの面倒を見られないという事情の人もお断りしています。お年寄りの世話を何よりも優先させるべきなのに、働いているから面倒は見られないというのは理由になりません」
「なごみの里」は、部屋の隅をカーテンで仕切って、そこに入居者のベッドを置いている。すぐ隣ではスタッフが働いているから、老人の咳一つも聞き逃すことはない。お年寄りも、スタッフが始終そばにいてくれるという安心感がある。
「病院では個室で仕切って、緊急のときに呼び鈴を押すことになっています。しかし、他人に気を使う人は、苦しくても呼び鈴を押さない人が多いんです。それに、すぐ頭の上の呼び鈴まで手が届かないお年寄りもたくさんいます」
柴田さんは、マザー・テレサを尊敬しているという。そして、マザー・テレサのように生きたいと願っているという。
「マザー・テレサの施設『死を待つ人の家』で暮らす人の多くは、死に際に?サンキュー?と言って旅立っていくと聞きました。人生の最後の最後に?ありがとう?と言って、この世を去っていく。逝く者にも、送る者にも大きな愛が与えられる尊い瞬間だと思います。これこそが、私が心の底から求めていたみとりであり、私が探し求めていた人間らしい死です。たとえ、人生の99%が苦難の連続であったとしても、最期の時が幸せなら、その人の人生は美しいものに変わるものだと思います」
日本が貧しかったころ、日本人はそれぞれ自分の家で家族にみとられて死んでいった。死は生活の中にあった。今、死はほとんど病院の中で行われ、そのまま斎場に運ばれる場合もある。死は効率的に、形式的に処置される。最も日本的なものだった死の儀式が崩壊してしまったのである。死を真っすぐ見詰めず、何かおぞましいものと思うようになってから、家庭の崩壊や虐待が始まったのではないかと思えてならない。
柴田さんが取り組んでいる「なごみの里」は、老人介護の問題を超えて、日本人の精神の有り様を問い直しているようだ。その取り組みが日本海に浮かぶ小さな島で行われていることに注目したい。8月の1カ月だけで全国から100人もの人が、柴田さんと直接会って話を聞きたいと、「なごみの里」を訪れているのであった。
官民一体となっての大勝負、「株式会社ふるさと海士」の挑戦
海士町の財政は、もはや一刻の猶予もならないほどに逼迫していた。町長の報酬は50%カット、一般職員も2割から3割カットされている。四方を海に囲まれた小さな島には、もともと漁業以外にさしたる産業はない。約2500人の人口も減る一方で、税収は上がらない。そのうえ、地方交付税の減額は町予算を直撃した。こういう状況を打開するために数年前から、イワガキやさざえカレーなど特産品の開発に力を入れているが、まだまとまった収益をもたらすには至っていない。
この危機的状況から抜け出すために、海士町は大勝負に出た。官民一体となって取り組む大事業、 「株式会社ふるさと海士」の設立だった。資本金は1億円。9000万円を町が出し、残りの1000万円は漁業組合や銀行、そして60人の町民も1株5万円を出資した。
小泉首相は、?民でできるものは民で?が口癖だが、それは余裕のある市町村での話、この島では、民でできるものは甚だ少ない。国からの援助が年々少なくなっていく情勢では、官も民もない、町全体で自立の道を模索するしかなかった。そのためには、町全体
を株式会社として見立てて生き抜くしか道はない、という結論に至ったのだった。
(株)ふるさと海士は、3つの事業から成り立っている。1つ目はCASシステムを活用した魚介類の販売、2つ目は自然塩の製造、3つ目は地場産品の販売、流通を担当する?きんにゃもんにゃ?事業(地元の民謡に出てくる、はやし言葉)、まさにこの事業は背水の陣、後のない起業である。
CASというのは、cells alive systemの略称。磁場で水分子の細胞崩壊を防ぐ冷凍技術のことで、食品本体と水分子を一気に冷凍させるから、解凍後も生と変わらない味を保つ。離島のハンディは何といっても輸送である。消費地から遠いばかりでなく、常に天候の異変に左右される。菱浦港に味の素晴らしい白イカが大量に水揚げされたといっても、都会の食卓に届くころには鮮度は落ちてしまう。フェリーや飛行機の欠航もしょっちゅうだから、まさに地域経済はお天気次第なのである。
このシステムの導入によって、都市の消費者に海士町の魚介類を売り込むチャンスが増大するし、インターネットなどの直販にもはずみがつくと期待しているのであった。
現場の指揮官は松前一孝さん、役場の職員だが、いまや役場に出勤することはめったになく、毎日工場に通っている。
「島には官も民もありません。一緒になって生き残りを図るしかないのです。この技術で海士ブランドを確立したいと思っています。例えば、われわれにはイワガキという特産があるのですが、これまでの箱に氷を詰めての輸送では限界があります。これからはハーフシェルといって、カキの殻をあらかじめ開けて、食べやすいかたちで送ることができますから、需要は増えると期待しているんです」
工場の中は、まるでハイテク工場に入るように厳格で、白衣に帽子とマスクを着用、履物も替えさせられ、殺菌室を通ってからでなければ加工場に入れなかった。
塩の製造工場も訪ねた。まだ試作段階だったが、ここでは、塩をそのまま出荷するだけではなく、塩辛や梅干しなどの加工品として出荷する準備をしていた。日本の離島ではほとんど塩を作っているから、差別化して販路を開拓するのは簡単ではないかもしれないが、
海士町のために何が何でも成功してもらいたいと、切に思った。
公共事業が去って、住民は自立の道を真剣に模索している
隠岐の島町の西郷港に上陸した人は、離島とは思えないほど整備されたインフラに驚くことだろう。
昭和40年代から、この島にはとてつもない公共事業が持ち込まれた。立派な港湾、広い道路、隠岐空港、橋、トンネル、島の隅々まで公共事業の恩恵が行き渡っている。しかし、この公共事業が一気に縮小し、島の経済は大打撃を受けている。
「公共事業に頼ってきたのが異常なのであって、これから本当のまちづくりを始めなければならないのです」と立ち上がったのが「風待ち海道倶楽部」の面々である。
会長の吉岡陽子さんは家具店を営んでいるが、商工会の女性部の部長も務め、早くから、隠岐の活性化は隠岐の町民の自発的精神にあると訴えてきた。
「平成12年ごろから中心市街地活性化事業が始まり、さまざまなワークショップが立ち上げられました。私はそれまでも、町民によるまちづくりの必要性を訴えてきたのですが、公共事業で豊かだったときは、耳を貸す人は少なかったのです。ところが、役場にもお金がなくなってくると、何かしなければという機運が盛り上がってきました。それが、風待ち海道倶楽部の設立につながったのです」
エコツーリズムは、隠岐の島おこしの目玉になる
風待ち海道倶楽部は、「みなと」「まち」「朝市」の3つの部門に分かれて活動している。
「朝市をやろうと提案したときは、いまさらそんなことをやっても誰も集まらんよと否定的だったのですが、実際は600人も集まって大盛況でした。みんな何か行動を起こさなければと考えていたけれど、火を付ける人がいなかったんですね」と、吉岡さんは自信を深めている。
商店街の空き店舗を活用して、無料休憩所と観光のインフォメーションを兼ねる「風待ちスタジオ」もオープンした。
「現在、倶楽部の会員は約70名です。この会員たちが協力して隠岐の宝物を見つけていけば、公共事業がなくなっても大丈夫だと思っています」
吉岡さんに、家具店で店番をしている時間はあまりなさそうだ。
風待ち海道倶楽部の活動の柱に、エコツーリズム大学がある。変化に富んだ隠岐の自然を、観光の目玉にしようという計画である。このプロジェクトで重要な役割を果たしているのが、子どものころから島じゅうを駆け巡って、昆虫を追い掛け回し、植物採集をしてきた、八幡浩二さん。
「屋久島や知床が手付かずの自然が残っているともてはやされていますが、隠岐はそれに劣らず植物の宝庫ですよ。南限と北限の植物が集中しているし、希少価値の種も多いんです。例えば?シャリンバイ(車輪梅) ?、この花を園芸種だと思っている人が多いのですが、隠岐では野生でいっぱい咲いています。カシワやミズナラもここでは海岸沿いにあって、本土とは植生が違う。本当に?不思議大自然?という感じなんです」
八幡さんの本職は黒曜石の加工、販売である。ガラスと同じような鋭利な切り口を持つ黒曜石は、旧石器人たちが、やじりとして狩猟に用いていたものだ。八幡さんの実家は旧五箇村の久見地区で、ここは昔からの黒曜石の産地なのである。
「黒曜石は隠岐の植物に劣らず、調べれば調べるほど興味の尽きない石なんです。日本海を越えたロシア沿海州ウラジオストク、ナホトカなどからも隠岐産の黒曜石が見つかっています。いったい、どういうルートで渡ったのか想像するだけで、心が躍ってくるじゃありませんか」
眠っていた観光資源が目を覚ますとき、隠岐のエコツーリズムは大いなるにぎわいを見せることになるだろう。
「私は観光収入を目当てに力を入れているわけではないんです。最も理想的なかたちで自然を保護していく、そのためのエコツーリズムでありたいと願っています」
少年の心をずっと失わなかった八幡さんに、公共事業がはじけたいま、大きな光が当てられているのだった。
地域づくりを活発に行うためには、フットワークの軽い役場職員がいることは必須の条件だが、建設課の野辺一寛さんが、その役割を引き受けていた。
「私は平成6年に、東京のゼネコンを辞めてUターンしたんですが、当初は役場はぬるいものだと感じましたよ。民間なら半日の仕事を一日かけているような印象でした。それに、行政主導型で、都市計画などを町民に説明しないで進めていたと思います。町民もまた、行政には関心が薄かった。それを私は、これからは町民と行政が一体となって進めなければと、パワーポイントでプレゼン資料を作り、町民の集まりに積極的に出席して説明して回るようにしました」
商工会の婦人部の集まりに顔を出したときに、前述の吉岡陽子さんと知り合った。
野辺さんは役場の中では建設課だが、地域づくりには欠かせない存在として、地域づくり担当という特命も受けている。
「町民のやる気を陰でサポートする。必要な資金をどこから捻出するか、国交省の補助事業や県の基金などに目配りしておく。そして、吉岡さんや八幡さんたちが大きな方向を決めれば、実際の交渉や案内は役場職員の私がやるほうが早いと思います」
雑用や事務を一手に引き受けて、住民の縁の下の力持ちになることが、野辺さんの仕事のようだった。
道路の整備を自発的に進めた土井幸子さん
日本人の伝統精神の素晴らしさをあらためて教えてくれた女性が、隠岐の島町の北端、中村地区にいた。食料から衣料、雑貨、野菜の種まで何でも扱っている個人商店の、土井幸子さん(61歳)である。
土井さんは、中村地区を歩くびに、雑草が道路にはみ出してきているのが気になって仕方がなかった。こんなとき、都市の住民は役所に電話して、苦情を言って済ませるかもしれないが、土井さんは違った。
「中村には日本海の眺望が楽しめる白島展望台があるのですが、ここに行く道が雑草に覆われていて標識が見えないほどだったんです。それで、私は店に買い物に来るお客さんに、あそこは草ぼうぼうで、中村地区に遊びに来る人に恥ずかしいと訴えたんです。そうしたら、集落のおかあさんたちが、それじゃあ自分たちで何とかしようかねと言ってくれました。それで日を決めて、雑草を刈り、路肩を整備して、そこに花壇をつくりました。
全員が女性でしょう、力仕事もあって作業の後は体の節々が痛くてたまらないのですが、お母さんたちは一生懸命に参加してくれました」
どうしても重機の要る場合は、地区の男性が手助けしてくれたが、ほとんどは女性の手でやり終えた。現場に行って見たが、女性たちの頑張りが伝わる立派な花壇ができていた。
彼女たちの志に素早く反応してくれた役場職員が、中出張所の岡田清明さんである。彼は、陰になり日なたとなって土井さんたちの意欲を支えた。その一つが、県の補助金を引っ張り出すことだった。
「われわれがやらなければならないことなんですが、お金と人手がないのとで、後手後手に回ってしまう。特に、道路や空き地の管理
・整備は、地元住民の協力をいただかないと、これからは成り立ちません。土井さんたちがやってくれたことを行政が正式に業者に発注したら、50万や60万はすぐかかるんです。かといってすべて善意に甘えるわけにはいかない。島根県にはハートフル道路事業といって、土井さんのような行為に報いるための助成制度ができましたので、とりあえずは10万円を補助することにしました」
県との委託契約は完了したものの、その補助金はまだ支給されていない。土井さんは時給500円に換算して、参加してくれたおかあさんたちに立て替えることにした。だが、志の高い労働への対価を現金で支払うのでは面白みがない。
「それで?だんだん券?(方言で、ありがとうの意味)という地域通貨を発行したんです。この券で、ツタで編んだ手作りの花かごや、地区のおかあさんたちと一緒に作っている陶芸の茶わんや食器を買えるようにしました。それで満足できない人のためには、土井商店の商品も買えるようにしたんです。厳密にいえば地域通貨ではなく、個人通貨かもしれませんが、何とかして地域の労働報酬を地域に還元したいという思いからなんです」
土井さんは、数年前に住居を建て増しして母屋を移したために、今まで住んでいた大きな家が空き家になった。この家に目を付けたのが、岡田さんだった。
「古い日本家屋を空けておくのはもったいない。柱も長押も太くて黒光りしている。グリーン・ツーリズムにはぴったりの家と提案しているんです。それに土井さんは美的センスが豊かで、古い蚊帳を染め直してのれんにしたり、ツタ細工で小物を作ったり、しゃれた草履を編んだり、陶芸も素人ばなれした器を作るんですよ。中村地区では、ここは立派な観光の拠点になると思っています」
中村地区には、集落のみんなが出資してつくった「さざえ村」という特産品の売店とレストランもある。この仕掛け人も、彼だった。
「小さな島では官と民の垣根は、あってないようなものです。お互いに力を合わせてやるしかない。ここに大勢の観光客は要らないんです。島の暮らしに理解があって、私たちと交流したいと思う人たちだけに来てもらいたいんです」と岡田さんは言う。
たとえ小さな島であっても、本土から?外貨?を稼ぐためには、市場原理に立ち向かわなければならない。観光であれ、水産物の販売であれ、他の産地との競争になる。島スタイルの牧歌的なやり方では、海千山千の都会の商売人を相手に戦えない。足腰を鍛える切磋琢磨は必要だが、だからといって島の善良さまで犠牲にすることはない。隠岐の魅力を失うことなく、島が自立できる道を探し求めてほしいと願うばかりである。
|