脱・公共事業官民一体となって汗を流す、 隠岐の“島おこし”

日本人の、離島に対する認識はまだまだ低いのではないか。島根県の隠岐を、日本海にぽっかり浮かぶ1つの小島と考えている人も少なくないようだ。実際の隠岐は180の島々で構成される群島で、人の住んでいる島は4つある。本土に近い島前(どうぜん)というのは、西ノ島(西ノ島町)、中ノ島(海士町)、知夫里島(知夫村)で構成されており、人口が合わせて約7000人。島後(どうご)というのは群島中最大の島で、平成16年10月1日に、西郷町、都万村、五箇村、布施村が合併して人口およそ1万8000人の「隠岐の島町」が誕生した。
隠岐の自然は豊かで、変化に富んでおり、歴史的にも貴重な史跡が多く残っている。しかし、島の経済は距離的にハンディがあるうえに、有力な産業もなく、長年、公共事業に頼ってきた。いま、隠岐は脱・公共事業を目指して、官民一体となって汗を流し始めている。

人は自分の家で死ぬのがいちばんの幸せだ
隠岐の知夫里島で、素晴らしい女性と出会った。NPO法人「なごみの里」を運営している柴田久美子さんである。

 福岡市の特別養護老人ホーム、老人保健施設、有料老人ホームなどで介護福祉士として働いていた柴田さんは、平成10年に、この島に単身で渡ってきた。

「長い間、介護の現場で働いていたのですが、いつも何かが違うという違和感がつきまとっていました」という柴田さんの違和感とは、人間の最期の瞬間があまりにもむごく、非人間的なことだった。

 お年寄りがいよいよ弱って、あの世に旅立たなければならなくなると、施設を出されて、病院に移されるのが一般的だ。救急車で搬送された老人は、延命治療のもとに、管でベッドにつながれてしまう。安らかな最期を願う本人にとっても家族にとっても、それはつらい光景である。酸素マスクを当てがわれては、いまはの際に最後の言葉も伝えることもできない。老人医療は手厚い看護を標榜しているが、実は人の死を軽んじているのではないか。

 いつしか柴田さんは、人間にはもっと愛に包まれたやさしい死に方があるのではないかと考えるようになった。

 人の死に際に関心が高まった柴田さんが、厚生省に問い合わせると、隠岐の知夫村が在宅死亡率が75%と全国一高いことを教えてくれた。

「その事実を知ったとき、私は何の迷いもなく、この島に移住しようと決めたんです。この島に、私が望んでいた大切な仕事があると確信しました」

 知夫村の老人自立支援センター「招福園」で働いた後、平成14年に競売に出ていた60坪の元集会場を、なけなしの貯金をはたいて買い求めた。これまで見てきた悲しい最期ではなく、高齢者に敬意と尊敬を払い、家族にみとられて旅立つ場所としてのNPO法人「なごみの里」を立ち上げたのである。

 柴田さんは、交通事故で脊髄を損傷した男性と結婚している。結婚以来、柴田さんが働いて、ご主人が家の中の仕事を担当してきた。知夫里島への単身移住については、入退院を繰り返しているご主人も、柴田さんの思いの深さに賛同して快く送り出してくれたという。

「招福園では4年間、ホームヘルパーとして働いたのですが、私は島の高齢者の方々の家を訪問するたびに、その凛とした生き方に接して感動を覚える毎日でした」

 92歳だったある女性は、末期がんであることを知りながら、本土に住む娘さんの「一緒に住もう」という申し出を断り、広い家に一人で住んでいた。柴田さんがいつ訪問しても、部屋の中が乱れていることはなかった。庭に咲く花の手入れにも余念がなかった。

「うら(私)はもうすぐ逝くけん、はよう身の回りを片付けんとな」というのがその女性の口癖だった。夜中に激痛に襲われても、人さまに迷惑を掛けるからと島の診療所に連絡しなかった。やがて容態が変わり、本土の病院に搬送された。

 柴田さんは、彼女はもう島には戻って来れないだろうと思った。しかし、死の三日前、その人は娘さんと共に島に戻ってきた。

「母親には、この島で最期を迎えさせたいんです」と娘さんは言うのだった。その時、柴田さんは、その母娘の毅然とした決断に、みとりの心構えを教えられたという。

「人々に平等に与えられた運命は、死だけです。死のその時まで、共に生きることこそが愛の行為です。私はいつしか高齢者の方たちを、幸齢者と呼ぶようになりました」と柴田さんは語るのであった。

旅立つ人の手を握り締めてあげよう
知夫村は人口750人ばかりの小さな島である。しかし、この島には人生の最後は自宅で迎えるのがいちばんという慣習が残っていた。子どもたちの多くは本土で生活しているために、このような死の文化も薄れてはきているものの、それでも高齢者は島を離れたがらない。医療設備の整った本土の病院に入っても、死ぬときは死ぬと達観しているようだった。

 柴田さんは、村のお年寄りたちの家を訪問するたびに、はっとするような光景を目にした。

 94歳だった別の女性宅を訪問すると、いつもその人の手には古い大学ノートが握られていた。亡くなったご主人の闘病日記だった。視力の落ちたその人は、その日記を読んでくれるように柴田さんに頼むのだった。

「彼女は私と一緒に外に出るときは、いつも車いすを仏間の前で止めさせて、まひした右手に左手をゆっくり近づけて、?父ちゃん、行ってくるけん、すぐ帰るからね。ご先祖さま、今日もありがとうございます?と合掌するんです。こんなことも言っていました。?父ちゃんが死んだら、こげな大きな家に一人で暮らすのは寂しいと思っとったけど、本当に父ちゃんが逝ったら、生きていたときよりも父ちゃんが近くにおるようで、この家を離れられんよ?と……」

 現代は、膨大な国家予算が福祉につぎ込まれている福祉社会である。にもかかわらず、老人たちが満ち足りた感謝の笑顔で最期を迎えられないのは、日本人の死生観がどこかで違ってしまったからではないのか。柴田さんの頭には、いつもこの疑問がある。

「人生の最期をどこで迎えるかは、本人の選択なんです。私は、この『なごみの里』で最期を迎えたいと希望する人には、息を引き取るまでここにいてもらいます。現在、お預かりしている、あるおばあちゃんは、毎朝、私の顔を見るたびに、?最期まで頼むぞ?とおっしゃるんですよ。

 また、自宅に帰りたいという人には、いよいよ危ないとなったときに自宅にお連れします。しかし、家族だけでは最期の瞬間まで面倒を見るのは大変ですから、私たちが通います。一日5回なんて決めていません。泊まりがけでお世話をさせていただきます。そして、お子さんやお孫さんたちに言うんです。間もなく旅立とうとしているおじいちゃんやおばあちゃんの手を握ってあげてください。手を握ってあげれば、幸せな気持ちであの世に行けるし、きっとあなたたちも幸せになりますよと、言うんです」 

最期の時が幸せならば、その人の人生は幸せである

「なごみの里」の経営状態は厳しい。現在、全国から来島した6人の有償ボランティアが手伝ってくれているが、1カ月の報酬は11万7000円である。柴田さんに賛同してくれる全国の支援者からさまざまな物品も送られてくるが、それでも台所は火の車だ。それを柴田さんは、自分の講演のギャラや本の印税で補てんしている。

「それでも、ここの入居基準は厳しいんですよ。簡単に誰でも受け入れるわけではありません。入居できる人は、島前の人(知夫村、海士町、西ノ島町)だけです。いざというときに、すぐに家族の方が駆け付けられる距離だからです。それに、家族の人が働いているために、お年寄りの面倒を見られないという事情の人もお断りしています。お年寄りの世話を何よりも優先させるべきなのに、働いているから面倒は見られないというのは理由になりません」

「なごみの里」は、部屋の隅をカーテンで仕切って、そこに入居者のベッドを置いている。すぐ隣ではスタッフが働いているから、老人の咳一つも聞き逃すことはない。お年寄りも、スタッフが始終そばにいてくれるという安心感がある。

「病院では個室で仕切って、緊急のときに呼び鈴を押すことになっています。しかし、他人に気を使う人は、苦しくても呼び鈴を押さない人が多いんです。それに、すぐ頭の上の呼び鈴まで手が届かないお年寄りもたくさんいます」

 柴田さんは、マザー・テレサを尊敬しているという。そして、マザー・テレサのように生きたいと願っているという。

「マザー・テレサの施設『死を待つ人の家』で暮らす人の多くは、死に際に?サンキュー?と言って旅立っていくと聞きました。人生の最後の最後に?ありがとう?と言って、この世を去っていく。逝く者にも、送る者にも大きな愛が与えられる尊い瞬間だと思います。これこそが、私が心の底から求めていたみとりであり、私が探し求めていた人間らしい死です。たとえ、人生の99%が苦難の連続であったとしても、最期の時が幸せなら、その人の人生は美しいものに変わるものだと思います」

 日本が貧しかったころ、日本人はそれぞれ自分の家で家族にみとられて死んでいった。死は生活の中にあった。今、死はほとんど病院の中で行われ、そのまま斎場に運ばれる場合もある。死は効率的に、形式的に処置される。最も日本的なものだった死の儀式が崩壊してしまったのである。死を真っすぐ見詰めず、何かおぞましいものと思うようになってから、家庭の崩壊や虐待が始まったのではないかと思えてならない。

 柴田さんが取り組んでいる「なごみの里」は、老人介護の問題を超えて、日本人の精神の有り様を問い直しているようだ。その取り組みが日本海に浮かぶ小さな島で行われていることに注目したい。8月の1カ月だけで全国から100人もの人が、柴田さんと直接会って話を聞きたいと、「なごみの里」を訪れているのであった。

官民一体となっての大勝負、「株式会社ふるさと海士」の挑戦
 海士町の財政は、もはや一刻の猶予もならないほどに逼迫していた。町長の報酬は50%カット、一般職員も2割から3割カットされている。四方を海に囲まれた小さな島には、もともと漁業以外にさしたる産業はない。約2500人の人口も減る一方で、税収は上がらない。そのうえ、地方交付税の減額は町予算を直撃した。こういう状況を打開するために数年前から、イワガキやさざえカレーなど特産品の開発に力を入れているが、まだまとまった収益をもたらすには至っていない。

 この危機的状況から抜け出すために、海士町は大勝負に出た。官民一体となって取り組む大事業、 「株式会社ふるさと海士」の設立だった。資本金は1億円。9000万円を町が出し、残りの1000万円は漁業組合や銀行、そして60人の町民も1株5万円を出資した。

 小泉首相は、?民でできるものは民で?が口癖だが、それは余裕のある市町村での話、この島では、民でできるものは甚だ少ない。国からの援助が年々少なくなっていく情勢では、官も民もない、町全体で自立の道を模索するしかなかった。そのためには、町全体

を株式会社として見立てて生き抜くしか道はない、という結論に至ったのだった。

 (株)ふるさと海士は、3つの事業から成り立っている。1つ目はCASシステムを活用した魚介類の販売、2つ目は自然塩の製造、3つ目は地場産品の販売、流通を担当する?きんにゃもんにゃ?事業(地元の民謡に出てくる、はやし言葉)、まさにこの事業は背水の陣、後のない起業である。

 CASというのは、cells alive systemの略称。磁場で水分子の細胞崩壊を防ぐ冷凍技術のことで、食品本体と水分子を一気に冷凍させるから、解凍後も生と変わらない味を保つ。離島のハンディは何といっても輸送である。消費地から遠いばかりでなく、常に天候の異変に左右される。菱浦港に味の素晴らしい白イカが大量に水揚げされたといっても、都会の食卓に届くころには鮮度は落ちてしまう。フェリーや飛行機の欠航もしょっちゅうだから、まさに地域経済はお天気次第なのである。

 このシステムの導入によって、都市の消費者に海士町の魚介類を売り込むチャンスが増大するし、インターネットなどの直販にもはずみがつくと期待しているのであった。

 現場の指揮官は松前一孝さん、役場の職員だが、いまや役場に出勤することはめったになく、毎日工場に通っている。

「島には官も民もありません。一緒になって生き残りを図るしかないのです。この技術で海士ブランドを確立したいと思っています。例えば、われわれにはイワガキという特産があるのですが、これまでの箱に氷を詰めての輸送では限界があります。これからはハーフシェルといって、カキの殻をあらかじめ開けて、食べやすいかたちで送ることができますから、需要は増えると期待しているんです」

 工場の中は、まるでハイテク工場に入るように厳格で、白衣に帽子とマスクを着用、履物も替えさせられ、殺菌室を通ってからでなければ加工場に入れなかった。

 塩の製造工場も訪ねた。まだ試作段階だったが、ここでは、塩をそのまま出荷するだけではなく、塩辛や梅干しなどの加工品として出荷する準備をしていた。日本の離島ではほとんど塩を作っているから、差別化して販路を開拓するのは簡単ではないかもしれないが、

海士町のために何が何でも成功してもらいたいと、切に思った。

公共事業が去って、住民は自立の道を真剣に模索している

 隠岐の島町の西郷港に上陸した人は、離島とは思えないほど整備されたインフラに驚くことだろう。

昭和40年代から、この島にはとてつもない公共事業が持ち込まれた。立派な港湾、広い道路、隠岐空港、橋、トンネル、島の隅々まで公共事業の恩恵が行き渡っている。しかし、この公共事業が一気に縮小し、島の経済は大打撃を受けている。

「公共事業に頼ってきたのが異常なのであって、これから本当のまちづくりを始めなければならないのです」と立ち上がったのが「風待ち海道倶楽部」の面々である。

 会長の吉岡陽子さんは家具店を営んでいるが、商工会の女性部の部長も務め、早くから、隠岐の活性化は隠岐の町民の自発的精神にあると訴えてきた。

「平成12年ごろから中心市街地活性化事業が始まり、さまざまなワークショップが立ち上げられました。私はそれまでも、町民によるまちづくりの必要性を訴えてきたのですが、公共事業で豊かだったときは、耳を貸す人は少なかったのです。ところが、役場にもお金がなくなってくると、何かしなければという機運が盛り上がってきました。それが、風待ち海道倶楽部の設立につながったのです」

エコツーリズムは、隠岐の島おこしの目玉になる

 風待ち海道倶楽部は、「みなと」「まち」「朝市」の3つの部門に分かれて活動している。

「朝市をやろうと提案したときは、いまさらそんなことをやっても誰も集まらんよと否定的だったのですが、実際は600人も集まって大盛況でした。みんな何か行動を起こさなければと考えていたけれど、火を付ける人がいなかったんですね」と、吉岡さんは自信を深めている。

 商店街の空き店舗を活用して、無料休憩所と観光のインフォメーションを兼ねる「風待ちスタジオ」もオープンした。

 「現在、倶楽部の会員は約70名です。この会員たちが協力して隠岐の宝物を見つけていけば、公共事業がなくなっても大丈夫だと思っています」

 吉岡さんに、家具店で店番をしている時間はあまりなさそうだ。

 風待ち海道倶楽部の活動の柱に、エコツーリズム大学がある。変化に富んだ隠岐の自然を、観光の目玉にしようという計画である。このプロジェクトで重要な役割を果たしているのが、子どものころから島じゅうを駆け巡って、昆虫を追い掛け回し、植物採集をしてきた、八幡浩二さん。

「屋久島や知床が手付かずの自然が残っているともてはやされていますが、隠岐はそれに劣らず植物の宝庫ですよ。南限と北限の植物が集中しているし、希少価値の種も多いんです。例えば?シャリンバイ(車輪梅) ?、この花を園芸種だと思っている人が多いのですが、隠岐では野生でいっぱい咲いています。カシワやミズナラもここでは海岸沿いにあって、本土とは植生が違う。本当に?不思議大自然?という感じなんです」

 八幡さんの本職は黒曜石の加工、販売である。ガラスと同じような鋭利な切り口を持つ黒曜石は、旧石器人たちが、やじりとして狩猟に用いていたものだ。八幡さんの実家は旧五箇村の久見地区で、ここは昔からの黒曜石の産地なのである。

「黒曜石は隠岐の植物に劣らず、調べれば調べるほど興味の尽きない石なんです。日本海を越えたロシア沿海州ウラジオストク、ナホトカなどからも隠岐産の黒曜石が見つかっています。いったい、どういうルートで渡ったのか想像するだけで、心が躍ってくるじゃありませんか」

 眠っていた観光資源が目を覚ますとき、隠岐のエコツーリズムは大いなるにぎわいを見せることになるだろう。

「私は観光収入を目当てに力を入れているわけではないんです。最も理想的なかたちで自然を保護していく、そのためのエコツーリズムでありたいと願っています」

 少年の心をずっと失わなかった八幡さんに、公共事業がはじけたいま、大きな光が当てられているのだった。

 地域づくりを活発に行うためには、フットワークの軽い役場職員がいることは必須の条件だが、建設課の野辺一寛さんが、その役割を引き受けていた。

「私は平成6年に、東京のゼネコンを辞めてUターンしたんですが、当初は役場はぬるいものだと感じましたよ。民間なら半日の仕事を一日かけているような印象でした。それに、行政主導型で、都市計画などを町民に説明しないで進めていたと思います。町民もまた、行政には関心が薄かった。それを私は、これからは町民と行政が一体となって進めなければと、パワーポイントでプレゼン資料を作り、町民の集まりに積極的に出席して説明して回るようにしました」

 商工会の婦人部の集まりに顔を出したときに、前述の吉岡陽子さんと知り合った。

 野辺さんは役場の中では建設課だが、地域づくりには欠かせない存在として、地域づくり担当という特命も受けている。

「町民のやる気を陰でサポートする。必要な資金をどこから捻出するか、国交省の補助事業や県の基金などに目配りしておく。そして、吉岡さんや八幡さんたちが大きな方向を決めれば、実際の交渉や案内は役場職員の私がやるほうが早いと思います」

 雑用や事務を一手に引き受けて、住民の縁の下の力持ちになることが、野辺さんの仕事のようだった。                          

道路の整備を自発的に進めた土井幸子さん

 日本人の伝統精神の素晴らしさをあらためて教えてくれた女性が、隠岐の島町の北端、中村地区にいた。食料から衣料、雑貨、野菜の種まで何でも扱っている個人商店の、土井幸子さん(61歳)である。

 土井さんは、中村地区を歩くびに、雑草が道路にはみ出してきているのが気になって仕方がなかった。こんなとき、都市の住民は役所に電話して、苦情を言って済ませるかもしれないが、土井さんは違った。
「中村には日本海の眺望が楽しめる白島展望台があるのですが、ここに行く道が雑草に覆われていて標識が見えないほどだったんです。それで、私は店に買い物に来るお客さんに、あそこは草ぼうぼうで、中村地区に遊びに来る人に恥ずかしいと訴えたんです。そうしたら、集落のおかあさんたちが、それじゃあ自分たちで何とかしようかねと言ってくれました。それで日を決めて、雑草を刈り、路肩を整備して、そこに花壇をつくりました。

 全員が女性でしょう、力仕事もあって作業の後は体の節々が痛くてたまらないのですが、お母さんたちは一生懸命に参加してくれました」

 どうしても重機の要る場合は、地区の男性が手助けしてくれたが、ほとんどは女性の手でやり終えた。現場に行って見たが、女性たちの頑張りが伝わる立派な花壇ができていた。

 彼女たちの志に素早く反応してくれた役場職員が、中出張所の岡田清明さんである。彼は、陰になり日なたとなって土井さんたちの意欲を支えた。その一つが、県の補助金を引っ張り出すことだった。

「われわれがやらなければならないことなんですが、お金と人手がないのとで、後手後手に回ってしまう。特に、道路や空き地の管理

・整備は、地元住民の協力をいただかないと、これからは成り立ちません。土井さんたちがやってくれたことを行政が正式に業者に発注したら、50万や60万はすぐかかるんです。かといってすべて善意に甘えるわけにはいかない。島根県にはハートフル道路事業といって、土井さんのような行為に報いるための助成制度ができましたので、とりあえずは10万円を補助することにしました」

 県との委託契約は完了したものの、その補助金はまだ支給されていない。土井さんは時給500円に換算して、参加してくれたおかあさんたちに立て替えることにした。だが、志の高い労働への対価を現金で支払うのでは面白みがない。

「それで?だんだん券?(方言で、ありがとうの意味)という地域通貨を発行したんです。この券で、ツタで編んだ手作りの花かごや、地区のおかあさんたちと一緒に作っている陶芸の茶わんや食器を買えるようにしました。それで満足できない人のためには、土井商店の商品も買えるようにしたんです。厳密にいえば地域通貨ではなく、個人通貨かもしれませんが、何とかして地域の労働報酬を地域に還元したいという思いからなんです」

 土井さんは、数年前に住居を建て増しして母屋を移したために、今まで住んでいた大きな家が空き家になった。この家に目を付けたのが、岡田さんだった。

「古い日本家屋を空けておくのはもったいない。柱も長押も太くて黒光りしている。グリーン・ツーリズムにはぴったりの家と提案しているんです。それに土井さんは美的センスが豊かで、古い蚊帳を染め直してのれんにしたり、ツタ細工で小物を作ったり、しゃれた草履を編んだり、陶芸も素人ばなれした器を作るんですよ。中村地区では、ここは立派な観光の拠点になると思っています」

 中村地区には、集落のみんなが出資してつくった「さざえ村」という特産品の売店とレストランもある。この仕掛け人も、彼だった。

「小さな島では官と民の垣根は、あってないようなものです。お互いに力を合わせてやるしかない。ここに大勢の観光客は要らないんです。島の暮らしに理解があって、私たちと交流したいと思う人たちだけに来てもらいたいんです」と岡田さんは言う。

 たとえ小さな島であっても、本土から?外貨?を稼ぐためには、市場原理に立ち向かわなければならない。観光であれ、水産物の販売であれ、他の産地との競争になる。島スタイルの牧歌的なやり方では、海千山千の都会の商売人を相手に戦えない。足腰を鍛える切磋琢磨は必要だが、だからといって島の善良さまで犠牲にすることはない。隠岐の魅力を失うことなく、島が自立できる道を探し求めてほしいと願うばかりである。

石の上にも10年

都会育ちの娘が田舎暮らしに慣れるまで
岩手県東和町・役重真喜子さんと
小林禎子さんの対話

小林禎子/1974年、神奈川県横浜生まれ。
1996年、青山学院大学経営学部卒。
同年、岩手県東和町役場入庁。現在、商工建設課勤務。

役重  小林さんは、最近、吹っ切れたというか、何か随分、明るくなった感じよね。

小林 東和町の人たちとの付き合い方に開眼したんです(笑)。以前、シーカヤックを買った時、翌日には町中の人から、?カヤックを買ったんだって?と言われて驚きました。ちょっとした行動も、あっという 間に伝わってしまうんですよね。
それに、”きのうは家にいなかったでしょうとか、”あなたの車をどこそこで見掛けたわよ?って言われたりするのも、すごく嫌だった。花巻インターあたりでも、バレますものね(笑)。

役重 それは私も、レンタカーを借りて移動しようかなと思ったこともあるぐらい(笑)。しょうがないのよね。監視しようと思っているわけではないんだけれど、結局、狭い社会だから。

小林 別に、言う人たちに悪気はないのは分かっているんですけれど。

役重 都会育ちの人が、田舎で暮らそうと思ったら、都市とは別世界で、違う星に来たと思ったほうがいいかもしれない。

小林 私がはっきり「そういう言われ方されるの、嫌なんですよね」と開き直れるようになったのは、つい最近のことですよ、10年かかっちゃった。

役重 10年というのはずいぶん長くかかったという気もするけれども、人生のサイクルって何となく10年ぐらいで変化していく気がする。でも、煩わしい半面、助け合って生きているという面も実感できるようになったでしょう。

小林 それは、災害のときなど大事な部分もありますよね。あと、掃除とか、町内会活動とか。

役重 私は、最初は農水省の研修で東和町に来て、見るもの聞くものすべてが珍しく、出会う人もみんな優しくて、翌年には役所を辞めて東和町に来てしまったけれど、そのころは無我夢中で、何も考える余裕はなかった。今、考えてみれば、役場に勤め始めて、アパートで一人で暮らしていた当時、自分で認識している以上に、周りのほうで異分子と思って見ていたんだろうなと……。今だから分かるんだけれど。

小林 自分が意識している以上に、周りのほうが気にしていますよね。

役重 そうそう。職場では一生懸命やっているんだから、それ以外のことは自分の自由だと思っていた、恋愛なんかもね。結婚したからといって、急に地域のことが分かるというものでもないけれど、私もだんだんに田舎における折り合いのつけ方が分かってきた。

小林 何か言われても、断れないというか、断ったら悪いかな……みたいな。言葉も違うからニュアンスが分からないし、「ハイハイ」と言っていると、あとから、えっと思うようなことが、いっぱいありましたね。

役重 最初は方言が分からなくて、「ケンサいく」というのを「検査に行く」ことだと思ったら、「県サ(県庁へ)行く」だったり、「ベコのカスズケ」を「牛の粕漬け」だと思ったら、「牛の貸付事業」のことだったり(笑)、私もどれだけ失敗したか分からない。言葉のニュアンスが分からないから、嫌なことも嫌とは言えなかった。

小林 「嫌」と言ったら、みんなに「横浜から来た今度の役場職員は生意気だ」と言われるんじゃないかとか考えて、案配が分からなかったですね。

 自分と近い年齢の農家の長男や長女の人が、「家を継げ」とか「嫁(婿)もらえ」とか集落ぐるみではやし立てられるのも、何回か目の当たりにしていましたしね。

 私は学生のころに役重さんと会って、いろいろ話を聞いて、東和町で働くことを決断したんだけれど、あこがれだけで飛び込んできちゃったところがあって、住んでみて初めて「あー、だから農村は嫌がられて、若い人が都会へ出て行っちゃうのかな」みたいなことを感じることもありました。若い人が周囲に本心を語れないプレッシャーみたいなものを、私も身をもって実感してたんでしょうね。

役重 小林さんは一度、辞表を出したこともあったよね。

小林 ありました。でも、もし辞めるのだったら、いい雰囲気で辞めたかった。逃げ帰るようにして二度と来れなくなってしまうのも嫌だなと思ったし。でも、時間が解決してくれました。

役重 結局、田舎に住むには、田舎の習慣に慣れなきゃいけないんだと思う。

小林 でも最近は、せっかく都会育ちの若い人が田舎で働きたいと思っても、なかなか仕事がないですよね。

役重 仕事ってさ、人がいるからこそ仕事があるのであって、人が減るから仕事も減る、仕事がないから人も減るという悪循環に陥っている。

小林 地方は助け合う社会と言ったって、自給自足経済が成り立っているわけじゃないですからね。だから、地方で働きたいと考えている都会の人には、地方は旅で立ち寄るのと住むのとでは全く違うんだということを十分に分かってほしいですよね。

役重 若い人が地方を目指すというのは、都会の若者文化というのは、ある程度、爛熟しているというか、飽和状態というか、飽きたんだよね、結局は。それに都会で、ほどほどのところに就職してほどほどに暮らしていく、ということがなかなか成り立たなくなった。だから、どこかに逃げるか、どこかに行くということになっているんじゃないかしら。

小林 都会から地方に遊びに来る人のなかには、まだ偏見を持っているような人がいると思いませんか。

役重 そうそう。田舎の人を見下しているっていうか……。田舎の自然はこんなに素晴らしいのに、何で地元の人は気が付かないのか、なんて見方をするのね。そうじゃなく、本当は十分気付いているんだけど、言わないだけなんだって。

小林 40代とかの裕福な主婦が体験ツアーとかって、ちょっと嫌ですね。

役重 農業は有機無農薬でやるべきだ、みたいな思い込みね。農家の苦労を見もしないで、自分の手は汚さないで、何様ですかって感じ。

小林 私たちも、都会の人はそういうもんだと思って接する部分もありますね。心の中では逆に、農村サイドのほうが都会の人をあきらめて見ているかもしれない。この人たちには何を言っても、どうせ分かりっこないと。

役重 郷に入れば郷に従えという気持ちの人とは、すぐに通じて分かり合えるけど。

小林 話は違いますけど、釜石にカヤックのお店があって、細々とやっている人がいるんですよ。その店のオーナーは元漁師さんで、昔、遠洋で稼いだお金で漁業用の倉庫を改装して店をやっているんですけど、いつ行っても繁盛しているようには見えない(笑)。一度聞いてみたら、アウトドア用の下着なんかは漁師さんにも実用的だから、そういうのを昔の漁師仲間に売り歩いて何とかやってきたんですって。店に集まってくる仲間たちもなかなか仕事がなくて、缶詰工場のパートさんとか、フリーターとか、そういう感じなんです。それなのに、みんなそんなに暗く見えない。むしろ、楽しそうなんですよね。この間、しゃべっていたときに、「俺らは現代社会の中で、カースト制度でいえば下のほうだよな」って話になって、その開き直りっぷりがおかしくって、みんなで大笑いしちゃいました。

役重 楽しんでいるから、そう言えるんだよね。

小林 そうそう。実際は、自分の住む地域が誇りだったりするわけですよね。三陸って、海産物も海岸線の美しさも日本屈指のエリアだし。都市部からの交通の便は確かに悪いけど、そのコミュニティーの中は、案外、豊かなのかも。

役重 狭い社会だから、この仕事はあいつに回してやろうとか、適当にうまくやっているよね。地方で暮らす力強さというのは、しっかりした職業を持っていなくて、何やっているか分からないような人も生き生きと暮らせるということかな。

小林 都会に行けば、ただのフーテンになってしまう。

役重 地方には定職に就いてなくて、生活ぶりもめちゃくちゃな感じなんだけど、明るい人っているものね。

小林 都会にいたら、深刻だろうと思いますね。

役重 例えば、独り暮らしのお年寄りが誰にも知られないまま亡くなったりすれば、そこの集落の恥という感覚。そこの民生委員とか、そこの自治会長が責任を感じるとか。だから、そんなお年寄りには声を掛け合ったりして、みんなやっぱり助け合っている。

小林 私は最近、横浜の実家に帰っても、長くいたいとは思わなくなりましたね(笑)。

役重 私も、東京から新幹線で帰って来て、仙台過ぎて、やっと岩手に入ると体中の骨が緩むというか、ああ、帰って来たと思う。1日、2日、実家に帰っても、帰ったときはうれしいんだけど、2日もいると、飲み水がまずいし、水がぬるいし。

小林 自分の住むところが好きになるっていうのには、最低10年はかかるっていうことかしら。

役重 そうね、なかなかいいこと言うじゃない(笑)。

内山節氏の哲学塾 貨幣について 

 

地域社会のなかで行われている実際の経済と市場経済との違いは何か。哲学者・内山節氏が住む群馬県上野村の例を引きながら、矛盾だらけの貨幣経済を、主ではなく、従の経済にするためにはどうすればよいか。本年5月に東京の居酒屋〈新・浪漫亭〉で開かれた哲学塾『貨幣について』の誌上採録の最終回です。

●表面化しない市場経済

現実の経済問題から入っていこうと思います。

 去年、ちょうどマツタケが出るころなんですけれど、岩手県に行きましたところ、なかなかいいマツタケが現地の直売所にあって、好きなものですから、つい1本買ってしまいました。そのときにマツタケを採る地元の名人が、一昨年、マツタケで上げた収入が150万円ぐらいあると言っていて、ちょっとびっくりしましてね。

 というのは、今、農業をやっていて、例えば米を作っていて、純利益150万円といったら、これはえらいことで、相当に頑張らないと難しいのが実情です。それは野菜を作っても同じことで、これは農業的には、相当の金額と見ていい。

 ところが、そのマツタケで150万円という収入は、投下資本ゼロですよね。彼の今までの蓄積……どこにマツタケが生えているかとか、そういうことだけが資金の源になっている。

 もう一つ、面白いと思ったのは、このマツタケの経済は市場経済なんですね。マツタケを採ってきて、産地直売所みたいなところで値札を付けて売っている。それを観光客とか地元の人が買うわけですから、これは紛れもなく市場経済なわけで、マツタケで150万円ぐらい利益を上げているとなると、税務署が動いてくる可能性が十分にあるわけですね。税務署に把握されてしまう可能性があるんですけれど、基本的には、闇から闇の市場経済なんです。

 それで、税務署が動いたとしても、そのおじさんは150万円をすべて申告するはずはないわけで、仕方がないから半分ぐらいに言っておこうかとか、そういう感じになるんでしょうけれど、つまり、市場経済なのに闇から闇に流れていく。表面から消えていく市場経済といいますか、そういう経済があることにあらためて気付いたし、しかも無視できない量としてあることに、ちょっと感心した、ということがありました。

 というのは、今まで私たちが現実の経済を見ていく場合、二つの経済が二重化しているというふうに見てきた。

 どういうことかというと、市場経済と非市場経済という二つの経済が、私たちの社会のなかには存在する。これは田舎に行けば行くほどはっきりするわけで、例えば、自分の家で自給用の野菜を作って、自分たちで消費する。あるいは、それを隣近所にあげる。これは市場を介さないわけですから、非市場経済です。

 都会になってくると、そういうものは減少していくわけですけれど、しかし、ゼロになっているわけではありません。例えば、家の中で料理をする。これも経済という面から見れば非市場経済。つまり労働をして、素材を加工するわけで、これも経済なわけです。ただし、この経済は、市場を介在させない。

 仮に、それをやめてしまって、市場経済に置き換えることもできるわけです。自分の家で料理をする代わりに、料理されたものを買ってくることもできますし、最近は、家の中に奉公人を雇う……いつごろ消えたのか、すっかりいなくなってしまいましたけれど、奉公人を雇うということが昔のようにあれば、給金を払って、雇い人に料理をしてもらう、ということもできるわけです。そうすると、これも市場経済化してくるわけですね。

 ですから、都会のなかにおいても、非市場経済がゼロになっているわけではなくて、料理を作るとか、子どもを育てるとか、介護をするとか、そういうものは、非市場経済的に運営されてきた。

 ところが、最近は、そういうものも市場経済的に運営される部分が増えてきて、だから、外食をするとか、できたものを買ってくるとか、介護の場合でも人を雇って介護をしてもらうとか、あるいは、子どもを育てることでも、託児所とか、保育所に預けるとか、そういうものが市場経済化していく。そういう動きは見せていますけれども、ゼロになってしまったわけではありません。

 それが田舎に行けば、これはもう、たくさん出てくるわけで、自分のところで野菜を作っているということもあるでしょうし、家の修理などでも、簡単な修理だったら自分たちでやってしまうとか、隣近所で助け合って修理してしまうとか、そういうふうな形で、自分たちの地域社会のなかで、非市場的に展開していく経済というのが存在する。

 だから、田舎というのは、貨幣量が少なくても生きていけるわけですし、非市場経済が大きいから、貨幣の量がそんなになくても、別に生活は不自由するわけではない、ということになるわけです。

 これは経済学者のカール・ボランニーなども、市場経済と非市場経済というのは、重なり合いながら全体の経済をつくっている、というふうに言っている。

 ただ、どうも二つではなくて、これは三つだな、という気持ちになってきた。つまり、もう一つ、表面化しない市場経済というのが、実はあるんだということに気が付いて、考えてみると、ぼくが住んでいる上野村なんかにもたくさんあるわけです。

 例えば、裏山の木を少し切った。そのときに、自分で切れる木もあるんですけれど、自分ではちょっと難しくて、切れない木もある。そういう木は、木を切るのがものすごくうまい人たちに切ってもらう。そうすると、村には相場というものがあって、その相場に従って謝礼をする。

 村のお礼というのはいろいろな形があって、ありがとうと言えば、それで終わりというのもありますし、お金で払うのはかえって失礼というものもあって、何か、物でお返しをするというときもあります。それから、お金で払うのがこの地域のルールだよ、というようなものもある。

 木を切ってもらったお礼は、うちの村では、お金で支払うというのがルールになっていますから、いくらかお金を払うわけです。そうすると、お金を介在させてお礼をしているわけですから、当然、市場経済のなかに組み込まれているわけですけれど、これもまた表面から消えていく市場経済です。決してGDPに換算されることもないし、多分、税務署が捕捉することもない。

 そういうことは、地域社会のなかにはたくさんあって、少しはお金でお礼を支払っていく形があるわけですけれど、この三つの種類の経済活動が重複して、重なり合って、そのなかの表面化しない市場経済や非市場経済が大きいと、別に生活は貧しいわけではない、という気がします。

●地域経済とお礼・習慣

その、表面化しない市場経済なんですけれど、これと市場経済のもう一つの違いは、こういう場合には、いくらお礼をするかという基準が、地域社会の事例として、あるいは習慣として、決まっているということです。

 その金額は、基準を上回ってもいけないし、下回ってもいけない。なぜかというと、上回ってしまうと、それが新基準になってしまう可能性があり、ほかの人々に迷惑を掛けることになる。

 ですから、たくさん払う分にはいいでしょうというのは、地域社会においては通用しないわけです。別な形でお礼をする、あるいは追加することは可能かもしれませんけれど、金額に関しては地元の人に教えてもらって、こういうときにはいくらくらいですよと、その基準で支払うようにしないといけないわけです。

 何となく昔からの習慣があって、それで地域社会が成り立っている。地域社会が何となくつくり上げた基準、儀礼とか習慣とかがあるんですけれど、それが金額にもあるということです。

 ただ、さっきのマツタケの例になってくると、価格はちょっと安いかもしれませんけれど、市場の価格で売っている。だから市場連動性は高いでしょうけれど、村の中で何か仕事をしてもらって、お礼をするというときには、だいたい地域社会が価格決定をしていると思えばいい。

 これには違う形のものもあって、今、ぼくが使っている畑は自分の畑といいますか、自分の所有地になっているので、当然、小作料は払わなくていいわけですけれど、その前は小作料を払っていた。

 あるとき、あの畑を買い戻してくれと言われて、僕としては渡りに舟で、買い戻したので、自分の土地になったということなんですけれど、その前に借りていた場合、いくら小作料を払うかということなんですが、うちの村のルールがあって、それは非常に安くて、面積に関係なく、一つの場所といいますか、それに対して年間5千円なんです。それがルールなんです。

 それを教えてもらったときに、ちょっと安いから1万円ぐらい払うとか、もうちょっと上乗せして払おうかなと思ったんですけれど、それは絶対にいけない。それが新基準に変わってしまうと、料金が変わってしまい、迷惑をする人が出てくる。だから、その金額にしておかないとまずい、ということです。

 年間5千円という地代が、市場経済的な意味で妥当かどうかと言われると、実は、誰も分からないんですけれど、地域社会では妥当な金額なわけで、ルール化されている。

 これは地域によって、ずいぶん違うと思うんです。同じような農地があったとしても、土地が不動産的に見られている地域なら、多分、ちょっと違う金額の出し方をしてくるでしょうし、うちの村は山の中ですから、土地が不動産として見られるという感覚はないんです。

 要するに、空いているんだったら、使いたい人が使うという、一種、相互扶助的な感じで土地は使われている。そういう地域社会の金額としては、5千円というのは妥当な金額なんだろうということです。

●ダイコンとハクサイの交換

冒頭で、昔の経済理論は自給自足から始まって、等価交換があって、最後はお金が使われて交換に変わっていったという説明をしましたけれど、人間が物を交換するときに、等価交換はあり得るのか、という異説もあるんです。

 例えば、ぼくの家でも今、ジャガイモが芽を出している。今日あたり、土を寄せるという作業をしなければいけないんですけれど、イノシシなどが来ない限り、多分、うちの畑で300?ぐらいジャガイモは取れると思います。

 当然ながら、自分一人で食べられる量ではありませんから、いろいろな人にあげたりして、お返しみたいなものが来るときもあるわけです。

 例えば、今年はジャガイモをイノシシに食われてしまったという人が出てくる。100?ぐらい食われてしまうこともあるわけですが、そうすると、ぼくのところでは余っているから持って行ってとジャガイモをあげる。そのうち、その人が魚をたくさん釣ったからといって持って来てくれる。そうやって、お返しみたいなものが来たりするわけです。

 ジャガイモと魚は全く違いますから、これは等価交換になり得ないわけです。それも等価にする基準がないわけで、市場価値で考えている限り、等価はあり得ないということなんですね。

 ただ、都会の場合はどうか。物をあげるというのは、たいてい買った物をあげるわけです。そうすると、人から5千円ぐらいの物をもらった。それで5千円ぐらいのお返しをしようという感じで、買いに行くというようなことが行われる。

 この場合には、アダム・スミスで言えば、交換価値でお礼をしている。ところが、村の中で交換しているときは、一方でジャガイモが虫に食われて困っている、一方で余っているからあげる、これは使用価値の提供なんです。

 それに対して、村の人は、後で魚を持って来てくれるかもしれない。時には籠を編んだからと言って、竹籠を一つを持って来てくれたりする。それも、買って来た竹籠ではないわけで、自分で編んだ竹籠を持って来てくれた人がいましたけれど、そうすると、ありがとうといって、もらうわけです。

 そのとき、決して金額換算はしていない。つまり、この籠だったら買えば何千円だとか、自分があげたジャガイモは何千円分だなんて、誰も考えないわけです。つまり、使用価値の交換です。

 ですから、使用価値で交換している限りは、実は合理的な価値基準がないわけで、等価という概念は成立しないわけですね。

 例えば、ダイコンとハクサイの交換をしたとしても、ダイコンとハクサイというのは全く違うわけです。同じダイコンで交換すればいいかもしれませんけれど、両方ともダイコンが余っているのに、ダイコンを交換をすることはしませんから、当然ながら、不足するところヘ回す。

 等価交換と簡単に言ってきたけれど、等価とはいったい何ぞやという問題を、実は、昔の経済は分析していないわけです。

 地域社会内において行われる交換というのは使用価値の交換、その点では、非合理的な価値量で交換しているわけです。決して等価たり得ない。

 では、そのときの基準は何かということなんですけれど、地域社会が持っている習慣とか儀礼ですね。こんな物をもらったなら、こんなような物を返しておけばいいのではないかというような、何となく、そういう地域社会の習慣があって、それに従って返しているということなんです。

 それも、時によって、内容がものすごく違ってきます。ぼくが上野村に行き始めたころ、定宿にしていた旅館があって、その旅館は、今は息子が帰って来ているから問題はないんですけれど、そのころは車がなかった。おじさんがいて、オートバイはあったけれど、車を持っていなかった。

 それで、ぼくが車で行っていたときに、夜、「悪いけど、荷物を運んでくれないか」と言うから、「いいですよ」と。そうしたら、ダイコンだか、ハクサイだか忘れてしまいましたけれど、大量の野菜を車の中に積み込んで、ちょっと離れた集落に行って、1軒の家にそれをあげた。それは、何かをもらったお返しだと言うんですね。

 そして次の日になったら、その離れた集落の家から大量の野菜が届いた。その晩に、またお返しに行くというので、今度は違うものを山のように積み込んで、出掛けることになった。「こうしたことが何回続くのか」と聞いたら、「今回は7回ぐらいかな」ということで、本当に7回ぐらいで終わった。

 でも、いつも7回やっているわけではないんですね。野菜をあげに行った集落は、距離的には10?ぐらい離れた、山を越えたところにある。山間地というのは、どこも似たような地形なんですが、天候が違ったりするし、特に秋の天候がおかしかったりすると、大幅に収穫が違ったりするわけです。

 種をまく時期はだいたい決まっていて、ハクサイだったらいつごろまくと決まっているんだけれど、最近、ちょっと暖かくなって、だんだん種まきの時期が遅くなって、以前より20日ぐらい遅くなっている感じなんですけれど、そのちょっとしたことで、例えば、いつもはハクサイを8月の15日ぐらいにまくのに、10日にまく人がいたり、20日にまく人、15日ぴったりにまく人がいる。

 それが天候の違いで、大幅に収穫の違いをつくって、10日にまいたのが正解だったり、20日にまいたらもう駄目というか、小さなものはできますけれど、大きなハクサイになるまできちっと巻かないとか、そういうことはよく発生するんですね。逆に、10日にまいたために病気が発生してしまうとか、自分たちで食べているものは、あまり農薬を使わないですから、そうすると腐ってしまうとか、そういうことが発生したりする。

 わずかの違いなんですけれど、うちの集落では、例えばA、B、C、Dという作物が豊作だった。ところがE、X、Zの作物は駄目だったということが起きるわけです。ところが、山の向こうの集落は逆で、E、X、Zは良かったけれど、A、B、C、Dが駄目だという、そういう現象も起きてしまうわけです。

 今は、野菜ができてなくても、八百屋さんがありますから、買えばいいと言えなくはないんですけれど、伝統的に冬場の野菜は漬物にするとか、あるいは地面の中に埋め込むとか、そういうこともして、春まで保存する。

 そうすると、山向こうの地域にしてみると、A、B、C、Dがない。これは大変さびしいわけです。そういうのを見ていて、こちらの集落の人はAがたくさんあるので、山向こうに持って行ってあげる。そうすると、Eをお返しに持って来る。次にBを持って行く。今度は先方がXを持って来る。そんな感じです。

 そういうようなことをしていると、この二つの集落の出来は、結果として平均化されるわけです。今年は何が山向こうは足りていないとか、こっちは何が余っているとか、そのへんの読みがあったものだから、先ほどの旅館のおじさんは、今回は7回かなと。

 それで、山向こうから軽トラック1台分に近い野菜が届いた。そうすると、1軒で全部自分のものにするわけではなくて、それを小分けして、集落の何軒かに配る。山向こうでも同じことをやっている。

 そんなふうにすると、昔の漬物樽に一つ分ぐらいのものは、どこの家にもあるという形に平均化されていく。もう少し細かく見ていくと、それぞれの家でも、よくできている物、よくできていないものがあるわけです。そういうものが、小さいお返しとして繰り返され、平均化されていく。

 だから、離れた集落で大きく交換し合って、それを集落内で小さく交換し合う。それを繰り返すことによって、冬場の保存野菜ぐらいは平均化させてしまう。そういう習慣がある。

 夏場の交換だと、7回もやることはないんです。たいてい1品ぐらいで、あそこの家はキュウリができていないから持って行ってあげようとか、逆に、キュウリをもらった人は、あそこの家はインゲン豆がうまくできていないから持って行ってあげようとか、1回ぐらいで終わりですし、時には、お返しがないということもある。もらったけれど、当面、返す物がない。そうしたら、返さなくていいわけです。

 そういうふうに、このお返しを繰り返しながら、交換のルールがつくられてきた。

 だから、市(いち)でもつくって、そこで交換をするとか、特殊なものはお祭りのときに交換するとか、そういうことはあっても、日常的な交換というのは、お店で売るような意味合いのものとは全く違うわけです。地域社会のなかでの相互助け合いでもあるし、儀礼でもあるし、そのあたりのルールは、みんな知っている。

 もし、これを金額換算してしまうと、甚だしく不当な交換が行われる場合があって、こちら側からは2万〜3万円相当の野菜を持って行ったのに、返ってきたのは千円ぐらいだったということはあり得るわけですけれど、そういうことは一切問題にならない。あくまでも地域社会の考え方で交換が行われていく、ということです。

●貨幣経済を脇の経済に

 追いやることを目指して

だから、貨幣を介さない経済社会というものは、その地域社会のルールとか、儀礼とか習慣とか、そういったものがないと成立しないということです。

 それに対して、貨幣を介在している経済というのは、それとは関係なく、まさに1個百円、1個千円という感じで、流通・交換が成立していく。

 だから、貨幣経済が活発になればなるほど、地域社会が衰弱していく。あるいは地域の人間関係が衰弱していく、というのは当然のことであって、つまり、非合理な価値、アダム・スミスの言葉を使えば使用価値とか、そういう価値量を計測できないようなものが、その地域社会のなかで暮らしていると、妥当な交換であるということが何となく了解できる。そういう世界であるわけです。

 かつて、多くの人たちは、そういう社会の中に生きてきた。

 それに対して、ウィリアム・ペティが怒ったアイルランドの農民は、多分、地域社会のまさに文化的ルール、ペティからすると、貧しいだけだというふうに見えたかもしれないけれど、そのなかで生きてきた人たちだと思うんです。

 そういうものは、国家間戦争の時代になってくると、むしろ足を引っ張る要素になってきて、その人たちに、もうける喜びを教えなければいけない。そのことでGDPを増やす社会をつくらなければいけない、というふうに変わっていった。そうなってくると、そこに出てくるのは貨幣の社会ということになっていく。

 それは、結果としては、自分たちの非合理な価値基準でうまく回っていくような、そういうルールを、やせ細らせてしまうということです。

 そして、やせ細った状況が今である、というふうに言ってもよくて、山の中の村々へ行くと、まだ、やせ細りながらも、そこそこの太さは持っているわけですけれど、都市部になってしまえば、もうクモの糸ぐらいの細さになってしまった、と言ってもいいかもしれない。

 ですから、貨幣の問題を考えていくと、貨幣をどうするかということではなくて、貨幣という合理性によって展開されていく経済を、どうやって脇に退いてもらうか、というふうに考えるべきだと、ぼくは思っています。

 確かに、ケインズが言ったとおり、貨幣経済というのは非常に合理的で、効率的で、面倒くさくない、という一面もあるわけです。

 これを廃絶してしまおうとしても、長い時間をかければ、不可能ではないかもしれないけれど、短期的には、難しい問題になっていくでしょう。

 それよりは、貨幣を介さない経済をどこまで拡大できるか。できることならば、むしろそれを主に置いて、貨幣を介する経済を脇にする。それを追求できないか、ということのほうが面白いと思っている。

 これにもまた条件があって、うちの村だと、主(しゅ)まではいかないかもしれないけれど、五分五分ぐらいにまでは、もう一度、押し戻すことはできるわけです。というのは、今でも3割ぐらいは貨幣を介さない経済が生きているわけですから、それを2割ぐらい増やして、五分五分ぐらいにまで持っていくということは、不可能ではないわけです。

 都市部の場合になってくると、五分五分もなかなか大変なんでしょうけれど、しかし、そういうものをどうやって増やしていくかということを、まじめに考えていくことはできるわけです。

 貨幣を介さなくてもいいものまで、貨幣を介してしまうというのは、やはり良くないわけです。だから、少なくとも価値基準としては、貨幣を介さない経済を上位に置いて、貨幣を介する経済を下位に置く、というぐらいの精神的価値基準は持ちながら考える。

 ただ、現実にそれを行うとすれば、どうしたらいいかということを少しずつ考えていく。あるいは実行していく。それが、われわれにとって要求されている想像力だろうという気がします。

 先ほども言ったとおり、結局、貨幣経済というのは矛盾だらけなんです。資本主義の支持者であったケインズでさえ、貨幣があるからこそ効率的にできるけれど、それが結局、人間をむしばんでいって、最後は退廃させていくと言っているように、どう見ても、これは矛盾だらけの仕組みなわけです。

 矛盾だらけである以上は、そのバランスをどう取り直したらいいのか、ということを考えなければならない。貨幣だけを相手にして、けしからんとか、便利だとか言っても、始まらないと思っています。         (了)