北海道夕張市 市長 鈴木直道さん
「最後尾の夕張市が、近い将来、先頭に立つ日がきっと来る」

中央政界が相変わらずゴタゴタしている中で、今年の4月、北海道にフレッシュで意欲に燃える若い市長が誕生した。全国最年少30歳で夕張市長に当選した鈴木直道さんである。夕張市はいうまでもなく全国唯一の財政再生団体である。17年間かけて300億円以上の借金を返済しなければならない。手かせ足かせをはめられたような自治体に、一人の若者が敢然と飛び込んだ。いま、再生団体は一つだが、“明日はわが身”の再生団体転落直前の自治体は数多い。われわれは夕張市にもっと関心を持つ必要がありそうだ。

大学時代はボクシング部で活躍していた。
 鈴木直道さんは昭和56年生まれ、石原慎太郎知事と“同期”の平成11年に東京都庁に入庁した。
「実際は私のほうがちょっと早いんです。青島幸男知事から“僕はもう辞めるけれど君たちは頑張ってほしい”といわれて辞令をもらいました」と笑う鈴木さん。市長に就任してまだ3カ月余、立ち居振る舞いが初々しい。
 鈴木さんは家庭の事情で大学に進学できず、高卒で都庁に入った。しかし、就職してから向学の念やみ難く、法政大学の二部に入学した。昼は新宿の都庁で働き、夜は飯田橋にある法政大学に通った。
 鈴木さんがひと味違うのは、ここから先である。彼は部活動としてボクシング部を選択したのである。法政大学のボクシング部はオリンピック強化施設にも指定されている名門で、高校時代にインターハイで優勝経験のある部員も多く、鈴木さんのように大学に進学してから初めてリングに上がる人は珍しい。
「私は57kgフェザー級で、試合前は減量がありますから、昼休みはサウナスーツを着て職場の周りをロードワークで走りました。夜の授業が終わってからボクシング部で練習をして、埼玉県三郷市の自宅に着くのは翌日になることもありました」
市長に当選してから多忙を極め、みんなから「市長になって大変でしょう」と言われるが、体力的に本当にきつかったのは大学時代の4年間だったという。
公式戦の成績は8戦して6勝(5TKO )2敗だった。

夕張市民と共に生きる決心
鈴木さんは北海道には縁もゆかりもなかった。平成20年に都庁が夕張市に職員を派遣することを知って、手を挙げた。
「石原知事は都の職員が東京都民のために100%働くのは当たり前、それ以外に、他の地域のために120%の力で仕事をするようにとおっしゃっていました。なぜなら東京は地方から上京してきた大勢の人に支えられているという考えもあるからです。東京都にはさまざまな研修施設もあるのですが、机上で学ぶよりも、破綻した夕張市で市民と生活を共にし、夕張市、北海道、国の3者が協議しつつ、財政を再建するプロセスは、都の職員としても貴重な経験を積むことになると知事は考えていたのだと思います」
 都庁では主任だったが、派遣された時の肩書はヒラだった。
「派遣されたのは平成20年の1月21日からでしたが、前年の12月25日、ちょうどクリスマスの日に事前調査で夕張に入りました。すでに雪が降っていまして、寂しい街だなあというのが第一印象でした。シャッターを下ろしている店が多かったことと、空き家が目立ったからなおさらでした」
市民課に配属された鈴木さんは、再生団体の厳しさを次々と体験することになる。すでに部長クラスは全員退職し、課長も3人残して全員退職していた。引き継ぎもしっかり行われなかったために、残った人たちは途方に暮れていた。幹部職員のいない不思議な市役所だった。
「私が赴任して間もなく、“いのちにかかわるもの以外はすべて切り捨てる”とか、再生団体は“最低限のサービス、最高の負担に耐えなければいけない”などと報道されましたが、何かおかしいという気持ちはありました」
 鈴木さんは派遣された一スタッフにすぎなかったから、再生計画を策定する前の再建計画に直接携わっていたわけではない。最初の1年目は、鈴木さんは市役所を出て、多くの市民と知り合いになり、交流を進めた。市民の気持ちを明るいものにするために、財政破綻のために中断していた桜まつりや紅葉まつり、冬のまつりである寒太郎まつりなどを復活させることに駆け回った。あっという間に派遣期間の1年目が過ぎた。派遣の約束は1年間だったが、“夕張市民の気の毒な立場はよく分かったが、私は東京に戻る”と言うことはできない気持ちになっていて、都庁にもう1年の延長をお願いした。2年目は、夕張市が再建計画から再生計画を策定しなければならない時期だった。鈴木さんは、何よりも市民の困り事、要望に耳を傾けるべきではないかと考えた。
「しかし、お金がまったくないのに“何をしてほしいですか?”と聞くようなことはできません。私は市職員としてではなく、一市民として『夕張再生市民アンケート実行委員会』を組織して調査を始めました。お金がありませんから、母校の法政大学と北海学園大学の80人の学生に2週間泊まり込んでもらい、最終的に1661世帯、全世帯の26%を訪問とアンケートによって生の声を集約しました。市民からは“破綻したからといって雪の降る量が変わるわけではないから除雪は続けてお願いしたい”とか、市民病院が閉鎖されて診療所になっていましたので、“医療体制だけは何とか維持してほしい”という要望が出されました」
これらの要望をまとめたものを総務大臣と北海道知事に持参したら、副大臣と副知事が受け取ってくれた。このような活動を通じて、鈴木さんの胸には夕張市民の気持ちがひしひしと伝わってきた。やはり何らかの政治的行動を起こさないと、市民の声がかたちにならないと考え始めていた。

考え方と見方を変えればマイナスがプラスになる
 今年の4月24日の統一地方選で、鈴木さんは夕張市長選に無所属で立候補した。対抗馬は自民、公明、みんなの党推薦の元自民党議員の飯島夕雁氏、選挙のたびごとに話題になる羽柴秀吉氏だったが、2位の飯島氏に790票の差をつけてトップ当選した。夕張市民は若き市長に将来を託したのである。この選挙で話題になったのは石原都知事が自ら夕張市に乗り込んで、鈴木さんの応援演説をしたことである。
「鈴木君のように、みんなのために自分の人生をかけて立ち上がる若者がもっと増えてもらいたい。皆さんに鈴木君の命を預けます」とエールを送り、「50年前の夕張に戻すための手伝いは東京はいくらでもします」と強調した。わずか3時間の滞在時間だったが、この効果が絶大だったのはいうまでもない。
 本誌と石原都知事との考えには大きな隔たりがあるが、自分の部下のために積極的に応援しようという気持ちと全面的に夕張市を支援しようとする姿勢には、大いに共感するものがある。
 市長に当選した鈴木さんには、日本でいちばん重い負担を背負って歩かねばならない運命が待っていた。
「夕張には日本一がたくさんあるんです。第一に財政再生団体の指定を受けているのは唯一ここだけですし、全国の市の中での人口の減少率もトップです。1960年代は約12万人いた人口が、現在は約1万700人です。しかし、考え方と見方を変えることができれば、マイナスをプラスに変えられることも多いと思っています」
鈴木市長は若いだけあって、物おじせず果敢に未知の分野を開拓している。お金がないから、副市長を置くことができない。月額24万円では来てくれる人はいない。石原都知事と高橋道知事にお願いして、副市長として働いてくれる理事の出向を依頼した。退職派遣ならば高額の人件費が必要となるから、身分併任のままの派遣をお願いした。現在、夕張市の副市長役は東京都と北海道から派遣されている2人の理事である。
理事だけではない、夕張市役所には北海道からの派遣職員が13人のほか、静岡県裾野市、浜松市、広島県広島市、愛知県春日井市、茨城県日立市からの職員も派遣されていた。この混合チームが思いがけない発想と新しいエネルギーも生みだしている。
 お金がないから公共施設の管理も大変だ。破綻したために一時、閉鎖していた市民会館は、東京のアディーレ法律事務所に命名権を売却して、現在は、「アディーレ会館ゆうばり」として復活した。公衆トイレも地元で介護事業を営む「夕張汽笛が聞こえる」という会社に命名権を売却した。
「やらなければならないことは山ほどあります。市内には夕張ツムラ、シチズン夕張、アクリフーズなどの企業があるのですが、社員の約30%の方々は住宅がないために市外から通勤しているんです。住宅を整備して、入居基準を緩和して、この会社の社員たちに夕張市に住んでもらうことも課題です。皮肉なことですが、財政再生団体になったおかげで全国の行政サービスの水準アップにも貢献しているんですよ。例えば、乳幼児の無料診断や健康診断の無料化を実施すれば、他の市町村にとって“あの夕張市でさえやっている”ということになって、追随の動きにつながってくるんです」
 鈴木市長は、夕張のまちづくりのテーマに、「3世代交流のまちづくり」を掲げている。夕張市は炭鉱のまちで、かつては炭鉱住宅が軒を連ねていた。この住宅は、隣人と壁一枚だったから、誰とでも家族同様な付き合いをしていた。
「一つ屋根の下に住むことはできませんが、まち全体を一つの家と考えて、熟年、壮年、青年たちとの交流を積極的に進めていきたいんです。市営住宅の空き室を活用して、市民同士の対話を進めることも始めたい」
 鈴木市長は、夕張市の最大の強みは情報発信力にあるという。夕張市が何かをやろうとすると、ほとんどすべてのマスコミが取り上げてくれるという。他の自治体がいかにしてマスコミに売り込むかに苦心していることを考えれば、恵まれているとも言えるのである。

全国から“頑張れ夕張”のカンパが現在も続々届いている
夕張市でいちばん驚いたのは「幸福の黄色いハンカチ基金」である。左の表をご覧いただきたい。この表は、破綻した夕張市の復活を願って全国の方々から寄せられた浄財をまとめたものである。
平成19年4月1日から平成23年7月31日までの集計で寄付者数1087人、寄付額2億1884万743円。寄付者の地域別では夕張市内27、道内他市町村223、道外から607もある。夕張市を離れた人たちが他市町村に住んでいても故郷のために何がしかのことをしたいという寄付もあるけれど、夕張市と直接の関係はなくとも心優しい全国の人たちが、夕張頑張れと寄付を申し出てくれているのである。
夕張市が破綻した直接の原因は石炭から観光への政策転換がうまくいかなかったためだが、銀行からの借り入れも膨大で、しかも、それを隠し続けたことにもあった。もちろん、鈴木市長の誕生するはるか前のことである。
そして、もう一つ、市政の運営に市民が無関心だったことも指摘された。ところが、6月議会では傍聴する市民であふれかえり、立ち見をする人もいた。新しく誕生した鈴木市長の初陣を見学したいという物珍しさもあったかもしれないが、関心は確実に高くなっている。
「市民に失望感を与えなければ、夕張の市民は市政に積極的にかかわってくれると思います。私は市民と一致団結してやるしかないんです。これからは全国どこの市町村でも人口が減少します。地方交付税が潤沢に配られるということは難しいでしょうし、補助金も増える見込みはありません。そんな中で、夕張市が他の市町村のどこも経験したことのないことを克服し、新しい発想で市政を立て直した時には、必ず他の市町村の先進モデル、お手本になるだろうと思っています」
首長は経験豊富なベテランでなければいけないということはない。ベテランでワンマン首長の強引さが再生団体の原因をつくったことを考えれば、すべて情報を公開し、若者らしい潔癖さで行政をリードする鈴木スタイルは、確かに他市町村のモデルになる可能性は大なのだ。
鈴木市長は、これからいろいろなパンチを受けることもあるだろう。しかし、強い信念を持って戦い続ければ、必ず勝利のゴングは鈴木市長に鳴り響く時が来るだろう。
「私のボクシングは技術のない分、気持ちだけで闘ってきた」という鈴木市長、その気持ちが夕張市を再生させることを本誌は確信している。

※上記の寄付数の表は、夕張市のホームページから引用。寄付者数については、1人で複数分野を指定して寄付される場合もあるため、文中の地域別寄付件数とは合致しません。