江差町の地域資源を掘り起こして高品質な宿「群来」を経営する棚田 清さん

10歳で片腕を失った

毎朝、まだ暗いうちに北海道江差町のホテル「群来(くき)」の裏口に野球帽とジャンパーの年配の男が現れて、ポリバケツに入った生ごみを回収していく。夏は3時か4時、冬でも5時にはやってきて、バケツを片手で器用に軽トラの荷台に持ち上げる。その軽トラの行く先は隣町の厚沢部町にある農家だった。男は、荷台からバケツを降ろすと、鶏や羊の餌となるものをより分けて、堆肥となる生ごみは畑の中のコンポストに入れた。農家の前には「旅庭 群来 指定農場 拓美ファーム」という看板が立っていた。

生ごみを収集していたのは棚田清さん(70)、ホテル「群来」の代表取締役である。片手だけで作業していたのには理由があった。

「私は片手しか使わないのではなく、片手しかないんです。昭和25年12月1日、小学校3年、10歳の時に父親についていった精米所で、精米機のシャフトに巻き込まれて、左わき腹をえぐられて、左手を失ってしまったんです」

 出血多量で死んでもおかしくない重傷だった。当時の田舎町に救急車はなく、馬車に乗せられて、診療所に運ばれた。幸い、そこの医師は戦地で多くの傷病兵の手術をしていた経験があり、すぐに処置してくれた。輸血に必要な血液は父親甚太郎氏だけでは足りなかったが、これも幸いなことに戦後間もなくのことで、医師は復員した人たちの血液型を把握していたため、同じA型の人から血液の提供を受けることができた。

 この事故が清少年の人生を暗いものにしたのかと思うと、そうでもないらしい。

「子どもは回復が早いんでしょうな。1カ月後には退院しました。当時はリハビリセンターのようなものはありませんから、何から何まで片手でこなすことを自分で工夫しなければなりません。子どもの順応力というのはすごいもので、間もなく片手で鉛筆を削ることができるようになったし、家庭科の運針もほかの生徒たちと同じように普通にこなすことができました」

 子どもは残酷なものだから、片手になっていじめに遭わなかったのだろうか。

「そりゃあ遭いましたよ。喧嘩もよくしました。しかし、負けっぱなしということはなかったね。やられたらどのようにやり返したらいいのか、どんな武器を持っていけばいいのかいつも考えてましてね」と当時を振り返る時、棚田さんはやんちゃで腕白な少年の表情になった。

生来、タフな精神の持ち主なのか、のんきな性格なのか、自分が片腕だということを意識することはあまりなかったという。

 父親は長男の事故に落胆しただろうが、特別扱いをすることはなかった。

「“鎌を片手で研いでみろ”とか“きょう一日で、この畔の草刈りを終えろ”とか命じられました。母親はそれを聞いて“父さん、何もそこまでさせることはないでしょう”とかばってくれましたが、父親は片腕でも生きていけるようにという親心で言っていたのでしょうか。おかげで私は片手でバイクを乗り回したし、スキーもやりました。車も不自由なく運転するし、いまは2台あるトラクターで畑を耕すのは私の仕事です」

 隻腕であることを意識することはなかったが、学校からの帰り道、夕日が自分の影を道に落とす時、そのシルエットを見て、“ああ、自分には片腕がないんだなあ”と思ったという。

抜群の経営感覚

 高校を卒業すると農業は三男である末の弟が継ぐことになったので、棚田さんは電器店のナショナルショップを立ち上げた。昭和37年、21歳の時だった。

「栄電社という会社を設立し、松下電器の特約店になりました。東京オリンピックを2年後に控えて、高度経済成長に向かう時だったから、三種の神器といわれた白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫がよく売れました。江差町だけではなく厚沢部町、乙部町までの人口3万人をわが社の営業エリアと決めて、シェア3割の確保を目指しました。10軒のうち3軒はうちの客になってもらうように頑張ったんです。おかげで自慢じゃありませんが、毎年、松下電器の特約店の売上で全道ベストテンを外れたことはありません。ですから札幌などで開催される特約店の大会では、“江差町の棚田”といえば、“あのばかか”と知らない人はいない存在でしたよ」と愉快そうに声を上げて笑った。

 栄電社は60歳まで約40年間経営したが、支店を出すまでに成長し、従業員も16人を雇うまでになった。

「片腕ですから、そりゃあ普通の人と同じようにいかない場合はあります。しかし、それだけ知恵を絞るというのか、自分でできないことは上手に人を使うというのか、商売上で片手のハンディを感じたことはほとんどありません」

 棚田さんのすごいところは、栄電社の業績を伸ばしたことだけではない。彼のビジネス感覚、経営能力が地元で高く評価され、次々に会社再建の案件が持ち込まれるようになった。

「一時は5社の経営を同時に引き受けたこともあります。奥尻島でウニの水産加工をしている会社が立ち行かなくなって再建を頼まれましたが、これも軌道に乗せて現在は地元の建設会社に譲り渡しました。ほかにクリーニング屋、洋服屋、物販の会社なども引き受けましたが、いずれも再建させました」

 小規模な会社ばかりではあるけれど経営感覚抜群の経営者といってもいいかもしれない。そして、最大の案件は昭和50年代の終わりころに町長から依頼された第3セクターのレストラン「江差家」の経営だった。

「当時は指定管理者制度というのがなく、町長から“このレストランの経営をできるのはあんたしかいない。すでに議会の根回しは済んでいる、うんと言ってくれ”と懇願されて、引き受けたものです。私は“あんたしかいない”というおだての文句に弱いんだ。このおだてに乗っていろいろ引き受けさせられました」

 江差家は120席ある大型レストランだったが、人口減少や景気の低迷にもかかわらず昭和58年から18年間経営して業績を伸ばし、町に委託費として計8000万円を支払い、無借金の会社にして後継者にバトンタッチした。

 60歳になった時、かねてから宣言していたとおりり、電器店の経営権を古くからの社員に譲り、これまでの蓄えと年金とで悠々自適の生活を送るつもりで引退した。二人の子どもは東京の大学に出て行く時、おやじの後は継がないと言ったので、“分かりました。結構です。その代わり路線変更は許しませんよ”と応じていた。栄電社には親族の役員は一人もいない。農業を楽しみながらのんびり暮らす予定だったが、またまた大きな転機がやってきた。

60歳をすぎてからホテル経営

 江差町の最大のイベントは毎年9月に開催される民謡「江差追分」の全国大会である。昭和38年に第1回が開催され、来年は50回の記念の大会となる。例年、この大会には北海道のみならず全国から民謡歌手と愛好家が集まり、宿泊施設はどこも満員になる。

「ある日、またまた町長に呼ばれましてね、江差家を頼まれた町長とは違う新しい町長ですが、町長室に入ると一通の手紙を渡されて、読んでみろと言われたんです。その手紙は江差追分の大会に参加した人からの、いわばクレームの手紙でした。宿のサービスから食事までまるでなっていない、江差追分の全国大会を開催する資格がないということが書かれていました。手紙を読み終えると、町長は“こういうことでは町の恥である。何とかよそからのお客さんを満足させるホテルをつくってくれないか”と言うんです。その時もまた“あんたしかいない”というおだての文句にうかうか乗ってしまったんです」

 平成13年、すでに60歳はすぎていたが、頼まれれば嫌といえない性格で、棚田さんは江差町にホテルをつくるというテーマに取り組むことになった。

「候補地は土地開発公社が国道沿いに持っていた1200坪の土地でしたが、私はまず温泉のボーリングをすることを提案しました。温泉は必須の条件だと思ったからです。ベトナム人で岩手大学で地質学を学んだ専門家にお願いしたところ、評判にたがわず一発で掘り当ててくれました。大規模開発ですから、説明会を開いて住民の同意を得なければなりませんが、ホテルの完成予想図を公開したところ、住民から非難ごうごうの反対です。高層建築物では景観を損なうという理由です。こちらは採算を取る上で一定の客室は確保しなければなりませんから、簡単に低層に修正できません。何だかんだといって計画が進まないので、建築に着手できません。すでに温泉をボーリングしてしまって、会社は掘削費用の5千万円を負担していますし、温泉を持ってよその土地に逃げるわけにもいかず、一時は断念も考えたほどです」

 そこで棚田さんが考えたのは、客室は7室ばかりだが、1泊の宿泊料を4万円とする高いクオリティの宿をつくることだった。この考えが頭に浮かぶと全国の高級な宿を視察のために泊まり歩いた。

「歴史的にも文化的にも評判の高い全国の有名な宿に何軒も泊まりましたが、結論をいえばどんなに有名なホテルや老舗旅館であってもまねはしない、まったく新しいタイプの宿をつくろうと固く決心しました。そして国際的にもグレードの高い宿をつくろうと覚悟を決めました。

湯布院の玉ノ湯にも行って、溝口薫平氏に相談したら、宿の経営のいかに大変なことかを聞かされ、悪いことは言わないからやめなさいというアドバイスをいただきました。こっちはすでに掘削料も払っているんですが、溝口さんはもし宿屋を始めてうまくいかなかったら、それどころではないと忠告してくれました。大変ありがたく拝聴しましたが、人に反対されるとかえって意欲をかき立てられる性分ですから、撤退する気持ちには少しもなりません。そうこうしているうちに設計を依頼した札幌の建築家・中山眞琴氏から、これまでのどこのホテルとも違う独創的で斬新な素晴らしい設計図が出来上がってきたんです」

その図面を見た時、何が何でもこれは実現しなければという強い気持ちになったという。

 

信念と情熱で金融機関を説得

 どんな宿かは泊まって体験していただくしかないけれど、一言でいえば、こぢんまりとした美術館のような瀟洒な宿である。ホテルは石の壁で外部から完全に遮断され、広大な敷地に平屋のわずか7室だから、静まり返っている。植栽はどんなにお金をかけても老舗旅館の日本庭園にかなわないと感じた棚田さんは、玄関回りや中庭には木を植えず、石を敷いた。高名な彫刻家・安田侃氏の作品4点がホテルを風格のあるものにしている。

「高層は駄目だというので、平屋にしたのですが、住民への説明会ではまたもや反対です。プライバシーを完全に保つために回した外壁はまるで留置所だといわれるし、なかには連れ込み旅館風だという人もいました。このホテル建設のきっかけは町長の依頼によるものですが、私には江差町の歴史や文化、食材などの地域資源を生かした品質の高い宿をつくり、海外からの客にも満足してもらえるものをつくらなければいけないという使命感のようなものがありました。それには付加価値の高い、非日常を体験してもらう宿、4万円分の価値を感じてもらう宿でなければならなかったのです」

 住民の同意を得るのも大変だったが、より大きな強敵がいた。金融機関である。

「金融機関の人からは、昔から江差という町は金を貸したら戻って来ない土地だと皮肉を言われるし、あなたは宿泊業に素人で何の経験もないから危険過ぎる、この不景気な時代にそんな高級ホテルに誰が泊まりに来るものか、江差町に観光客が押し寄せていて、宿が足りないというのならまだしも、町は森閑としていて宿はがらがらではないかというのです」

棚田さんは自分の思いがなかなか理解してもらえず悔しい思いもしたが、ここで切れてしまえば金を貸してもらえない。じっと耐えて忍耐強く説得を繰り返した。

たとえ6000円や7000円で泊まれるホテルをつくったところで、観光客が来てくれる保証はない。安いだけで客の呼べる時代ではない。経験がない経験がないとおっしゃるが、日本の経済の低迷を打破するのは他業種から参入して、既存の業種にイノベーションを起こすエネルギーではないか。そのエネルギーを支援するのが金融機関の役割ではないのですか。それを駄目な理由ばかり並べて、駄目だ駄目だというだけでは、ただでさえ駄目な町がもっと駄目になるではないか――と反論し、説得した。

棚田さんの情熱と意志の固さに打たれて、金融機関はようやく融資に応じてくれることになった。この事業には棚田さんの夢と情熱に共感した友人たちが500万、1000万と出資し、1億600万円の資本金が用意された。友人たちは事業の配当に期待したのではなく、江差町が寂れていくのを見るのはしのびない、何か起爆剤になるような施設が必要だという棚田さんの夢を応援しようとする人たちだった。

新しいホテル文化の創造

「群来」は平成19年5月にオープンした。群来とは、ニシンが産卵のため浅瀬に押し寄せ、海が乳白色になる状景を表現した言葉である。営業を開始して2年7カ月、もちろんまだ軌道に乗ったとはいえないが、予想以上に順調であるという。

料理は長年「なだ万」の料理長を務め、テレビの「料理の鉄人」でも有名な中村孝明氏の指導を仰いだ。中村氏は開業まで3度も厨房に立ってメニュー開発の指導に当たってくれた。部屋着などはコシノジュンコ氏のデザインによるものだ。

「群来」の最大の特長は、棚田夫妻が完全無農薬で栽培している野菜かもしれない。

「私はこのホテルをつくる時、絶対に東京ではできないものをつくろうと考えたのですが、それが何かというと新鮮な食材です。お出しする野菜はほとんどが私と家内で完全無農薬で栽培しているものですが、肉も拓美ファームで飼育している北海道地鶏、それにサフォークという品種の羊です。自社で足りない素材は半径25km以内で調達すると決めています。この距離だと往復で1時間、新鮮な状態で召し上がっていただけるからです。すべての食材が収穫されてから1時間以内に食卓に上げることができる宿が東京にありますか。不可能でしょう。これは田舎だから、しかも7室の宿だから、大量に仕入れる必要はないからできることなんです。魚介類も目の前が海ですから、アワビやヒラメなど生きのいい海の幸を毎日入手できるのです」

本誌は高級な宿にはめったに泊まったことはないので他と比べることはできないが、4万円の価値は十分あると納得するホテルだった。部屋の広さが63?と広く、平屋だから上階からの気になる物音もない。大浴場はなく、すべての部屋の内風呂に温泉が引かれている。目の前は日本海で、景勝地の鴎島が遠望できる。外からは中がのぞけないが、中からは眺望が楽しめるような設計になっている。寝間着とは別に部屋着が用意されていて、これを着ればロビーやバーもOK、全館が温泉の熱を利用した床暖房になっていて、素足でいても温かい。いったん宿に入れば、ホテル内の飲み物はすべて無料である。

「最近は年に何回も訪れてくれる方や3連泊、4連泊するお客様もいらっしゃいます。どんなお仕事をされているのか伺いたくても、もちろん伺いません。オープンする前は、リタイアされた高齢の方が主たる客になると予測していたのですが、実際は30代後半から40代前半までの方がトップで、次が40代後半から50代前半の方、60歳以上の方は3番目でした。お客様は首都圏の方が55%、次が名古屋方面で、3番目が道内の方です。『群来』の居心地の良さ、快適さを知っていただければ、まだまだ宿泊客は増えると確信しています」

「群来」に泊まって、もしかしてこのホテルは新しい文化の創造ではないかと考えた。京都の老舗旅館のように国宝級の掛け軸が掛かっていたり、高名な陶芸家が焼いた何百万円もする器を使っているわけではない。着物姿の女将さんが部屋を回ってあいさつするわけでもない。どこか肩の凝る既存の老舗旅館のイメージを払拭して、今様のホスピタリティを追求している。目の前には1968年、榎本武陽、土方歳三が新政府軍に徹底抗戦するために江戸から乗船してきた開陽丸が復元されて繋がれている。その海は「江差の五月は江戸にもない」とうたわれたニシン漁で繁栄を極めた名残の海でもある。これらの地域資源を生かしたホテルは、紛れもなく新しい文化を創っている。

今年70歳の棚田さんは、自分が生きている間に利益という果実を手に入れたいとは思っていないという。それよりも事業が継続できる体制、システムを構築することがすべてで、軌道に乗った後は誰が経営してもいいではないかと考えている。

 このようなホテルにいつでも気軽にというわけにはいかないが、何かの節目の時、例えば定年退職の記念や結婚記念日などにこの宿に宿泊すれば、1枚の忘れられない写真をアルバムに張ることができる。

■「群来」〒043-0041北海道檜山郡江差町字姥神町1番地の5

TEL 0139-52-2020 FAX 0139-52-6060  http://www.esashi-kuki.jp