特  集

“前例より前進。条例より常識”で日本の政治風土を改革する

犬山市議会議長ビアンキ・アンソニーさん

 愛知県犬山市の議会に、生粋のニューヨークっ子の議長が誕生した。ビアンキ・アンソニーさん(58)である。英語の教師として来日したビアンキさんは、お役所仕事の壁にぶつかった苦い経験から、「前例より前進。条例より常識」を掲げて、市議会議員選挙に出馬した。現在4期目である。これまで地方議会に欠けていた議員同士の議論を呼びかけ、財政の無駄を省こうと努めてきたが、次には市民が議会で発言する場を設けたいという。国政は「忖度(そんたく)」ばやりで透明感を欠いたままだが、市民のためなら「政治より正義」と直球勝負を挑むビアンキさんは、犬山から日本の政治風土を変えつつある。

                       ジャーナリスト 松本克夫

英語教育で自説を貫く

 ビアンキさんが初めて日本を訪れたのは1988年。岐阜県で開かれた「ぎふ中部未来博」に合わせて、日本でのホームステイ希望者の募集があった。ニューヨーク市役所勤務のかたわら、空手や日本語を習い、禅などの日本文化に興味を抱いていたビアンキさんは、これに応募して、愛知県一宮市に12日間滞在した。ホストファミリーの母親は高校の英語の先生で、日本で過ごすつもりなら、外国人が日本の学校で英語指導助手(AET)を務められるJETプログラムがあると教えてくれた。ビアンキさんは、帰国後すぐに同プログラムへの参加を申し込み、希望通り愛知県教育委員会に配属された。4年間AETを務めた後、いったん帰国したが、日本の魅力にとりつかれたビアンキさんは、再度日本で仕事をしたいという希望を捨てきれなかった。その願いは96年にかなった。日本滞在中に知り合った犬山市の石田芳弘市長から、犬山市で働かないかと声がかかったのである。

配属は教育委員会になり、犬山市の英語教育のプログラム作りを担当することになった。当時、犬山市では、4つある中学校に1人ずつ外国人の英語講師を配置する計画をしていた。「教育長は元中学校の校長先生で、私が尊敬する人でした。その教育長から、任せるから、私のほかに3人の英語講師を集めてほしいといわれました。そういわれれば、頑張るしかありません」とビアンキさんは張り切った。しかし、その教育長が間もなく病死したため、問題がこじれることになった。外国人講師を採用する際、一番簡単な方法は人材派遣会社に依頼することで、教育委員会もそうしたい意向だった。ビアンキさんは、それに異議を唱えた。「人材派遣会社に依頼すれば、教師の資格を持つ人はほとんど採用できません。日本の学校で英語を教えている外国人はほとんどが教師の資格を持っていませんが、それは間違ったやり方です。毎日、生徒と一緒にいる先生が教える技術を持っていないなら、学校のお荷物になってしまいます」と。

犬山独自のNETプログラム

 結局、ビアンキさんの主張が通ったのだが、その代わり募集から採用、日本への渡航の面倒までビアンキさんが一人で担当することになった。「ビザの手続き、航空券の手配、講師のアパート探しまで全部自分でやりました。教育委員会は知らん顔でした。ある女性の市議会議員が個人的に手伝ってくれ、要らない家具などを集めてくれました」。募集にかかった費用はビアンキさんが自腹を切った。

 ビアンキさんは、犬山市の外国人英語講師をNET(ネイティブ・イングリッシュ・ティーチャー)と名付けた。日本で使われていたAETのAはアシスタントであり、助手でしかない。ビアンキさんは、「ほかの自治体とは違うところを見せたかった」という。苦労して、修士の資格を持つ優秀な英語講師3人をそろえたから、感謝されると思いきや、日本人教師の間からは「どちらの方が偉いと思っているの?」という声があり、指導主事からは「日本人の先生を守ってあげなければならない」といわれ、あぜんとした。

 当時の犬山市は全国一斉の学力試験に参加せず、科目ごとに独自の副教本を作成する犬山方式の教育を貫いていたため、全国から注目されていた。ビアンキさんたち外国人講師も、毎週、学校の輪転機を使って補助教材を印刷し、生徒に配布していたのだが、他の科目のように1冊の副教本に製本することは認めてもらえなかった。認められたのは、ビアンキさんが市議会議員になってからである。「議会で提案したら、それはいいアイデアですねという答弁で、すぐに副教本の導入が決まりました。立場が変わると、こうも変わるものかと思いました」。

映画『生きる』の世界そのままのお役所

 NETプログラムに取り組んで7年たった2003年は統一地方選挙の年だった。英語教育の仕事でやれることはほぼやり尽くしたと感じていたビアンキさんは、市議会議員選挙への出馬を決断する。その前に、ビアンキさんが「けいちゃん」と呼ぶ英会話教師の恵子さんと結婚し、日本国籍も取得していたから、立候補の資格はあった。「ビアンキは行政と戦うのが上手だから、市議会議員になったらどう」と勧めてくれる友人もいた。「私が選挙に出るといった時、けいちゃんは冗談かと思ったそうですが、私としては自然な決断でした」。

最初に覚えた日本語が「しがらみ」と「お茶を濁す」だというビアンキさんは、日本のお役所体質が身に染みてわかっていた。ニューヨーク大学で映画制作を専攻し、ハリウッドで仕事をしたこともあるビアンキさんは、黒澤明監督の『生きる』も見ていた。ハンコを押すだけの無気力な日々を送っていたある市の市民課長が、がんで余命いくばくもないことを悟って一念発起し、市民が望んでいた公園づくりに奔走して亡くなる物語だが、お役所体質を鋭くえぐった作品である。ビアンキさんは、「コンピューターを使うようになった今でも、官僚的な文化はそれほど変わっていません」と痛感している。それまで、「前例がない」「条例がある」という言葉でさんざん提案をはねつけられ続けてきた経験から、選挙では「前例より前進。条例より常識」を掲げることにした。 

記録的な得票でトップ当選

選挙では、地盤、看板、かばんの3つが物を言うというのは日本では常識だが、「私にはその3つともありませんでした。そういう言葉すら知りませんでした」というありさまだから、選挙運動のイロハもわからない。「自分の考え方やポリシーを知らせるだけのシンプルな選挙」を目指したのだが、それが意外に難しい。人にされて嫌だと感じることはやめる原則にしたから、電話作戦は採らない。ビラに印刷して配ろうとしても、公職選挙法のルールに縛られてできない。選挙公報もあるが、12センチメートル四方のわずかなスペースしかない。これでは、「候補者が何を考えているのか、どうやって知らせるの?」といいたくもなる。後援会もつくらずにいたが、後援会の入会のしおりなら配布してもいいとわかり、「ビアンキ会」の入会のしおりに政策を書き連ねて、配ることにした。政策の柱は、情報公開、市民参加、交流とPR、教育の4つである。

選挙事務所には中学校の教え子たちが手伝いに来てくれたものの、大人たちの誰が投票してくれるものやら、皆目見当がつかなかった。しかし、選挙結果は予想をはるかに超えるものだった。得票は3302票でトップ当選。それまでの犬山市議選では、2000票を超えた得票者はなかったから、驚異的な記録である。この時は、2000票を超える得票者は3人いた。2番目は女性候補、3番目は最も若い候補者だった。「市民が『変えたい』というメッセージを送った」ことは明白だった。 

議員間の議論がない不思議

 議員になってからは、早速、公約を実行に移した。最初に提案したのは、議会の情報公開である。「ベストなのは、議会を地元のケーブルテレビ、またはインターネットで中継することです」と訴えた。この提案はやがて実施に移されたし、続いて提案したパブリックコメント制度も実現した。行政の職員や他の議員からは「情報をそのまま出すだけでは、市民は理解できないよ」という声を聞いたが、ビアンキさんは、「市民が市政に積極的に参加するには、正しい完全な情報が必要」と信じている。

 ビアンキさんが議会に席を得て、「最初におかしいと感じたのは、議員同士の議論が全然なかったこと」だ。「議案はほとんど行政から出ます。それもおかしいのですが、議会は一般質問や質疑を聞いたうえで、不安があるなら、修正、否決、付帯決議、継続審査など対応すべき手はいくつもあります。しかし、お互いに話し合わないで、どうやって対応を決めるのでしょう」と疑問を呈す。議員同士の議論がないのは、首長からの提案をそのまま追認することに慣れ切っていた日本の地方議会共通の習性ともいえるだろう。

「議員として何よりも重要な仕事は、財政運営の推進だ」と確信したビアンキさんは、財政の無駄にも切り込んだ。「玄関マットやモップのリース契約からパソコンの借り上げ費まで議場で取り上げました」。調べると、パソコンも、1社からしか見積もりを取っておらず、多額のリース料を支払っていることがわかった。議会で担当部長と言い争った結果、入札により新しいパソコンのリース契約を結ぶことになった。リース料は4割ほど安くなった。

税金の無駄遣いを追及

 2006年にビアンキさんは急きょ犬山市長選に出馬することになった。石田芳弘市長が愛知県知事選に立候補するため辞任したからである。勝算があったわけではないが、最有力と目される候補が公共事業によるバラマキ型の政治家で、この人に任せていいのかと思ったからである。この時は、恵子さんも「出るべきだ」と背中を押してくれた。ビアンキさんは、「100パーセント無駄のない行政を!」と財政改革を訴えた。結果は、8人の候補者中3位の得票に終わったが、翌年の議会選挙で再び議会に復帰した。

 復帰後、ビアンキさんは、犬山市の選挙公営負担制度の問題点を指摘した。定められた得票率を超えた候補者には、選挙用ポスター制作費として上限36万6780円が支給されていた。市長選では、他の候補はこの限度額いっぱいを使ったのに対し、ビアンキさんのポスター制作費は9万9780円で済んだ。ビアンキさんは、高い制作費の限度額を引き下げるよう提案した。他の議員からは、「いきなり引き下げると業者たちが困る」などと抵抗する意見が出たが、「自らの選挙で使う税金に十分配慮していない人が、どうして市の財政を監視できるでしょうか」と正論で押しまくった。結局、ポスター制作費の限度額を48%引き下げる条例改正案が成立した。

 ビアンキさんは、市が古い屋敷を保存するために購入しようとした際にも、待ったをかけた。「市が5000万円で購入した武家屋敷は、修理して一般公開するまでに2億円かかりました。その後、別の屋敷を8000万円で購入する案件が持ち上がりました。歴史文化も守らなければいけませんが、優先順位としてはもう少し福祉に力を入れなければなりません。その屋敷を購入するなら、収入が上がるような使い方をしなさいという付帯決議案を提案しました」。「付帯決議は重たい」といってためらう意見もあったが、ビアンキさんは、財政状況が厳しい時こそ議会の意思表示が大事だという。「北海道夕張市の財政が破綻したのは、議会の責任です。議会がハンコを押さないと、行政は1円も使えませんから、議会には力があります。議会はその力を発揮しておりません」。

市民に議会での発言の場を

 議会本来の力を発揮すべく、ビアンキさんは今年5月の議会で議長選挙に立候補した。10対9のきわどい勝負ながら、当選を果たした。これからどうするか。政務活動費の無駄遣いをはじめ地方議会のスキャンダルが報じられることが多いが、実際には、2006年に北海道栗山町で議会基本条例を制定したのを手始めに、地方議会は改革の時代に入っている。栗山町の議会基本条例では、議員同士の議論の実施や住民と対話するための議会報告会の開催などを定めたが、栗山町に倣って議会基本条例を制定する動きが相次いでいる。ただ、ビアンキさんは、こうした改革の動きを疑問視する。「議会基本条例は議員の意識改革につながればいいのですが、条例を作るだけが目的の自治体もあります。議会報告会もパフォーマンスになりがちです。議会報告会の前に、議会はもう少し報告するに値する仕事をしなければなりません。行政の提案に全部ハンコを押しました、ではどうにもなりません」。

 ビアンキさんが狙う次の「議会の機能向上」のポイントは、市民の議会への参加である。「私がやろうとしているのは、市民が議会で直接意見をいえる場を設けることです。1人当たり3~5分で構いません。アメリカでは当たり前のことです。市民の意見の中から、いいテーマが出てきて、それが議員間討議につながるなら、草の根民主主義になります。今は、何をいっても変わらないとあきらめている市民が多数です。自分が意見をいうことで、何かが変わったら、市民の意識も変わります」。しかし、この案がすんなり議会で通るかどうか。通ったとして、市民がその場に出てくるのかどうか。「日本にはなかった仕組みですから、イメージがわかない人もいるでしょう。しかし、上手に説明すれば賛同を得られると思います。市民が意見をいう場に出てこなければ意味がありませんから、市民にもチャレンジします。市民にとって、地方議会より身近なものはありません」。やる気十分だ。

ジャッキー・ロビンソンに倣って

 ビアンキさんは、ニューヨークのブルックリン地区で育った。女手一つで育ててくれた母親のフランセスさんは、同地区でなお健在である。ビアンキさんは選挙公約でも掲げた「交流」を促進しようと、「B・ブリッジズ」というブルックリンと犬山市の懸け橋となる団体をつくり、双方のホームステイを仲介している。これまでに、ビアンキさんの母校であるザバーリアン高校の生徒ら70人ほどの団体が5回来日し、犬山市からも団体で5回ブルックリンを訪問した。

 ブルックリンと聞いて、筆者がまず思い浮かべるのはブルックリン・ドジャース(現在はロサンゼルス・ドジャース)である。小学生のころ、そのブルックリン・ドジャースが来日し、日本の選抜チームなどと親善試合をしたことがある。胸躍らせながらラジオの実況を聞いたものだが、その時4番を打っていたのがジャッキー・ロビンソンである。ビアンキさんは、「人種差別と闘いながら大リーグ初の黒人選手となったジャッキー・ロビンソン選手は郷土の誇り」だという。頑固に正義を貫こうとするビアンキさんを見ていると、日本の政治の世界のジャッキー・ロビンソンに見えてくる。

 ビアンキさんは、3年前に『前例より、前進! 青い目の市会議員〝奮戦記〟』(風媒社=TEL052・331・0008)を出版した。ビアンキさんの奮闘ぶりについては、詳しくは同書をご覧いただきたい。

 

犬山市を訪れたビアンキさんの母校ニューヨークのブルックリンのザバーリアン高校の生徒たち。

 

犬山市民も5回もブルックリンを訪問している。

 

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