特  集

 

皮まで丸ごと食べられる「もんげーバナナ」を開発した岡山市の田中節三さん

 

 6070代の人たちが子どものころ、バナナは憧れの果物だった。一般家庭では手の出ない高価な食べ物だった。遠足のお昼時、リュックサックからバナナを取り出す生徒がいようものならクラスメートは取り囲み、口元を羨望の視線で見つめたものである。バナナを食べられる子どもはお金持ちの子どもに限られていた。

 田中節三さんも少年時代、何とかしてバナナを腹いっぱい食べてみたいと思いながら育った世代である。その少年の夢を40年間追い続け、ついに奇跡の発見を成し遂げたのだった。

 

1632円の高級バナナはすぐ売り切れる

 岡山市南区にある農業法人株式会社D&Tファームには、連日視察者が絶えない。何しろここではバナナだけでなく、パパイヤ、マンゴー、グアバ、コーヒー、パッションフルーツ、ナツメヤシなど熱帯の植物230種がたわわに実り、青々と生育しているのである。バナナ栽培をしてみたいと考えている人だけでなく、テレビや新聞、雑誌などマスメディアも押し掛け、海外からの取材陣もひっきりなしに訪ねて来る。

奇跡のバナナともいえる「もんげーバナナ」は1632円、1房ではなく1本の値段である。ちなみに「もんげー」とは岡山弁ですごいという意味。「もんげーバナナ」が売られているのは岡山市の天満屋デパート本店のみ、店頭に並べばたちまち完売という状況が続いている。この話題のバナナは皮まで丸ごと食べられる画期的なものである。

「バナナをおなかいっぱい食べたいという願望は成人しても少しも衰えることはなかったです。子どものころから植物が好きでしたので、20代のころから趣味としてバナナの栽培を始めました」とおっしゃるのは「もんげーバナナ」の生みの親の田中節三さん(68)

 今、スーパーで売られているバナナはフィリピンやエクアドルから輸入されているキャベンディッシュという品種だが、田中さんが恋い焦がれたバナナはこの品種ではない。

「子どものころ食べたバナナはグロスミシェルという台湾産のもので、甘くてねっとりした食感でした。50年ぐらい前、一時輸入が途絶えたことがあって、23年後に再び店頭に並んだバナナは全く違う味でした。私が愛したグロスミシェルという品種は病気のためにほぼ絶滅してしまい、キャベンディッシュに代わってしまったのです」

何とかして昔のあの甘いバナナを食べたい一心で、田中さんは昭和30年代、まだアメリカの統治下にあった沖縄に渡って、グロスミシェルを探し回った。あちこち歩き回ってついにこの品種を栽培している農家と出会い、貴重な苗を分けてもらうことができた。

「自宅の庭にハウスを建てて大事に育てました。バナナは熱帯の植物だから寒ければ駄目だろうとハウスの中に電熱器を入れたり、石油ストーブを入れたり、ありとあらゆる方法を試しました。しかし、電熱器から出る赤外線はバナナを枯らしてしまうのです。ストーブから出る二酸化炭素も、やはり悪い影響を与えてしまいます。気温が下がれば枯れてしまうのでハウスを二重、三重にして、排気ガスを外に出す煙突の付いた寒冷地仕様のストーブを持ち込んで温めたりもしました。ハウスの温度を一定以上に保っていれば枯れないのですが、どういうものか今度は実をつけないんです。やはり、太陽が当たらなければ実はつけないのです。かといって露地で栽培しては気温が低くて育たない。日本ではバナナは無理なのかと何度も諦めかけました」

 

バナナに再び氷河期時代を体験させるというひらめき

 悪戦苦闘しているころ、偶然飛行機の中で読んだ雑誌に、「日本ソテツの化石が発見された」という記事を見つけてひらめくものがあった。52700万年前のソテツが化石で発見されたということは、地球を何度も襲った氷河期を乗り越えて生きてきたことになる。3億年前のカブトガニ、岡山の湯郷温泉で発見されたオオサンショウウオなども氷河期を越えて生き残った生物である。バナナも氷河期に死滅しなかったことは、本来、バナナには寒さに耐性があるに違いないと考えた。

「いろいろ調べてみると、バナナを食べ始めたのは13千年前ごろインドネシアのボルネオ辺りということが分かりました。そのころインドネシアには氷床があって、昼は海の暖かい空気が内陸部に吹き、夜は内陸の氷床から海側へ冷たい空気が吹きおろすという気候だったようです。バナナはそういう環境でも繁殖していたということですから、いまのように熱帯でなければ育たないということはなかったのではないかと考えたのです。熱帯でなければ育たなくなったのは何万年もかかって、バナナが熱帯に順応してしまったということです」

田中さんは、岡山でもバナナができないことはないと、心ひそかに確信するようになった。

バナナに再度氷河期を体験させれば眠っている特質が覚醒するのではないかと考えた田中さんは、比較的安く手に入りやすいパパイヤの種で実験を開始した。しかし、実験はことごとく失敗した。

そうこうしている時にまたまた飛行機の中で、貴重な記事を発見した。

「林原生物化学研究所が、細胞を乾燥や冷凍から守る革命的な細胞包材を発明したという記事です。これによって臓器移植等の際に細胞を損なうことなく移送できるとありました。細胞包材とは、いまは広く普及しているトレハロースのことですが、私はこの記事を読んで自分の実験に重要な役割を果たすだろうと興奮しました」

 田中さんはパパイヤの種をトレハロースの溶液に入れ、それを凍らせてみることにした。氷河期を体験させ、眠っている潜在能力を引き出そうとしたのである。実験を繰り返すうちに、急速に凍らせるのではなくゆっくり時間をかけてマイナス60度まで凍らせるといいことが分かってきた。そしてゆっくり解凍して、土に植えると発芽状態も良く、寒さにも暑さにも強く、岡山の気温にも順応することが分かった。凍結解凍覚醒法の誕生である。

田中さんの話を伺っていると、セレンディピティ(serendipity)という言葉が思い浮かぶ。何かを探している時に、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つける能力、才能とでも言ったらいいだろうか。違う言い方をすれば、“偶然をきっかけにして幸運をつかむ能力”である。

アルキメデスはお風呂からあふれる水を見て、浮力を発見した。ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見した。フレミングはブドウ球菌の研究をしていた時、青カビが発生しているのを見つけたことから「ペニシリン」を創り出した。一途に物事を追究していれば、神さまは思いがけない恩寵を与えてくれるようである。

 

二度も会社更生法のお世話になった波乱の人生

 田中節三さんの話には生物学や細胞学の専門用語が次々に出てくるので、大学で生物学を学んだのかと思いきや、中学卒業ということだった。ご本人の弁でいえば、登校拒否児だったようである。だから今でも漢字の書き順は全くのデタラメだという。田中さんは高校に進学せず、働き始めた。しかし、天才的なビジネス感覚があったのだろう、20代で始めたリサイクル事業が成功して、財をなした。

「昭和53(1978)ころにチリ紙交換でおなじみのリサイクル事業を始めました。紙だけではなく、自動車、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などの中古品を東南アジアに運んで売ったり、解体して資源再生する事業です。このビジネスは1973年の第1次オイルショック、1979年の第2次オイルショックの影響もあり、時代の波に乗ってとてももうかったのです。日本から運んだ古紙を再生する製紙工場を中国に設立したりもしました」

 リサイクル事業といっても田中さんの場合はスケールが違う。事業を始めたころ、LPGガスが都市ガスに切り替わったころで、古いガスボンベが各地で不要になっていた。田中さんはそのメーター部分に注目した。各地から不要になったボンベを回収して、コンテナに詰め込んで香港経由で中国に送った。人件費の安い中国で人海戦術で解体し、真鍮、合金、アルミ、銅などを取り出して日本に持ち帰った。建築ブームだったから高値で売れた。事業は順風満帆で年商300億円を超え、従業員も海外を含めれば数千人を抱えるまでになった。しかし、1985年ごろから急激に進んだ円高で大幅な為替差損が生じ、遂に1988年に会社更生法を申請することになった。

「負債は35億円、強制破産にかけられてすべてを失いました。しかし、人生は面白いもので間もなくバブルが始まって、所有していた37000坪の土地が高騰し、マンションやビル、社員寮などを高く売却できたので、3年後には借金を完済して、管財人から再び代表権が戻ってきたのです」

このころ田中さんを病魔が襲った。胆管がんになったのである。

「膵液が逆流する急性すい臓炎になり、意識不明のまま病院に運ばれました。診断の結果、胆のうにがんが発見され、手術することになりました。その後、肝臓への転移も認められ1年半で4回も手術台に乗りました」

田中さんは余命1年と宣告されたが、がんの治療中に驚くべき行動に出る。

「入院中にいろいろな書籍を取り寄せて読んだのですが、その中にドイツの免疫学者の論文がありました。その本に、がんは病気ではないから治らない、ただ消すことはできると書いてあったのです。がんは糖質が最高のエサなので、糖を断てばがんは死ぬとあったのです。私はそれを読んで直ちに担当医師に、ブドウ糖の点滴を止めてくれとお願いしました。医師は続けていれば1年は持つが、止めれば1週間も持たないと言うのです。私にとっては1年も1週間も同じだと言って、強引にブドウ糖の点滴を止めさせ、ついでに抗がん剤治療もストップしてもらいました。病院食には一切手を付けず、和牛ステーキ100gを朝昼晩3度食べ続けたのです。ごはんもパンも果物もジュースも一切取りません。水を飲んだだけです」

これを始めてから1週間、衰弱するどころか食欲が出てきた。1カ月もしたら体重が増えてきた。目の前にいる担当医師よりも、見知らぬ外国の学者の書いた本を信用するなど田中さんは大胆というか無茶な人だが、己の確信には命を賭ける人なのだろう。その決断力、精神力の強さががんを克服したといえるかもしれない。

退院後、田中さんは再び事業を興した。リサイクル事業をしていた時、スクラップや古紙を運ぶために貨物船を持っていた関係で、海運事情にも詳しかった。中国が船が少なくて困っているという情報を耳にして、中古船の売買を始めたのである。この事業もタイミングが良かったのか、たちまち軌道に乗って大きな利益をもたらした。しかし、2008年のリーマン・ショックで赤字に転落して、二度目の会社更生法のお世話になることになった。二度の破綻を経験したが、田中さんは今でも事業の方向性は間違っていなかったと思っている。一度目は円高、二度目はリーマン・ショックと、いずれも田中さんの手の届かないところでの環境の変化で破綻したのであって、経営者の能力とは関係がない。波乱万丈という言葉は田中さんのためにあるようなものである。

 

日本がバナナの輸出国になる日がやってくる

二度の破綻、生きるか死ぬかの大手術の時も、バナナの実験はこつこつと続けられていた。凍結解凍覚醒法のすごさは、その成長力である。バナナだけでなくパパイヤでもマンゴーでも従来のものより3倍から5倍も成長が速く、驚異的な収穫量をもたらす。この成長力がバナナの危機を救うのではないかと期待されている。危機というのは、バナナ産地であるフィリピンのミンダナオ島に新パナマ病という病気が蔓延して深刻な状態にあるからだ。伝染性の強い病気で、ウイルスに感染すると根腐れを起こしてしまう怖い病気だが、今のところ対策の立てようがなくお手上げ状態である。病気が広がらないように、感染したバナナの木を切り倒して焼くしかない。このままでは数年後にはバナナは絶滅すると言われているほどなのである。

幸いなことに、新パナマ病は日本に入って来る心配は全くない。日本の温度では菌は生き残れないだろうといわれているからだ。そうなると「もんげーバナナ」はやがて海外に輸出される重要な作物になることも夢ではなくなる。

研究熱心な田中さんは、化学的な抗生物質を使用せず、すべて天然の物質で栽培している。バナナを皮ごと食べることができるのも、ただ柔らかいだけでなく農薬を一切使っていないからだ。いま開発中なのはバナナの茎と葉から搾り取った樹液でバイオ発電をすることだ。この樹液がエネルギー効率の良いこともすでに実験済みだ。バナナは無限の可能性を秘めている植物なのだ。

九州の農家が田中さんの苗でバナナ栽培を始めた。いま田中さんが注目しているのは北海道である。北海道の大地でバナナを栽培すれば、韓国、中国、ロシア、そして世界各国へ輸出できるようになる。田中さんは関心のある人からの問い合わせを待っている。

■農業法人株式会社D&Tファーム 〒709-1204 岡山市南区西高崎81-22

TEL0863630877 FAX0863630878  Mail tanaka@dt-farm.com

 

キャプション

1.     「田中節三さんの顔」 常識を次々に覆すイノベーションの天才といってもいい田中節三さん。

 

2.     「ハウスの外観写真」 このハウスの中で熱帯植物が力強く育っている

3.     「田中哲也さんの顔」 節三さんの甥に当たる田中哲也社長。叔父を心から尊敬しているという。

4.     「田中節三さんの実験写真」 研究熱心な田中さんは、大豆と乳酸菌でチーズを作る実験もしていた。

ここからはあらためてデザイナーから指定したものが行きます

5.     D&Þファームは熱帯の楽園

輸入に頼るしかない熱帯の特産物の国産化が可能になれば食卓はまるで変ったものになる。

パパイヤ、コーヒー、.カカオ、パイナップル、.マンゴー

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