●本庶佑博士が「免疫の働きにブレーキをかけるたんぱく質『PD1』を発見」した功績でノーベル生理学・医学賞をもらった。難しいことは分からないが、日本人として誇らしい気分になる。肺がんなど複数のがん治療に効果のある新薬の開発につながったという。本庶博士のおかげで命が助かったという人のコメントも新聞で紹介されていた。がんの治療は日進月歩で、がんは死刑の宣告と同じと言われた昔と比べれば隔世の感がある。間もなくがんは克服できるという記事も散見するが、しかし現時点では依然として死亡率第一位の病気であることに変わりはない。

●最近、親しい人ががんで亡くなり、現在、治療中の友人もいる。私事で恐縮だが小生の場合も妹はすい臓がんで亡くなり、兄は胃がんから生還した。父親も最後は胆管がんだった。妻は大腸がんと乳がんの手術を同時に受け、現在5年の経過観察期間が明けるのをひりひりした思いで待っている。

身近にがんの人が多いが、恐怖感が濃厚に漂っているという感じはない。がんに付きまとうイメージが昔とはまるで違っているようだ。がんが多過ぎてまひしてしまったのか、生存率が高くなって、恐怖から解放されたのか分からない。

●昭和27年に公開された黒澤明監督の『生きる』は、がんに侵された中年の市役所吏員・渡邊勘治(志村喬)が主人公である。病院の待合室で見知らぬ男から話し掛けられ、医師はがんの場合は、「軽い胃潰瘍です」というのだと教えられる。待合室の無神経な男は渡辺篤、医師は清水将夫、助手は木村功が演じていた。診察室に呼ばれた主人公が、待合室の男が言っていたとおりに医師から告げられ、絶望する。この病院のシーンは震えるほど恐ろしかった。

●現在の診察室では、映画のような緊迫した場面はないようだ。がんであることを医師はいともあっさり本人に告げる。昔は、家族を呼んでくださいと言って、本人に病状は言わないのが普通だったが、今は患者のほうでもはっきり言ってもらったほうがいいという人が増えた。本人に悟られないように家族が苦心して隠し通したという話も聞いたが、今はあまり聞かない。人間の生き死に関して、日本人は成熟した観念を持つようになったのか、医学の進歩が死生観を変えたのか。がんと告知されて「ひと思いに死んでやれ」と自殺を考える人はいなくなった。

●がんで入院している人を見舞うたびに思うのだが、その態度は実に立派である。静かに淡々と治療を受けている。すてばちのような言葉は口にしないし、恨みがましいことも言わない、死の恐怖におののいているそぶりも見せない。それより見舞いに来てくれたことに恐縮し、気を使っている。小生にそのような試練が下されたらまねができるだろうかと心配になる。世の中の日々の俗事を眺めてみれば、相変わらず拝金主義、権勢欲、名誉欲に取り付かれた人が多く、人間は少しも進歩しないものだと思わないわけにはいかないが、身近で病床にいる人たちを見る限り、与えられた運命を慫慂として受け入れている人が多い。頭が下がる。

●でき得るならば人生の最後は達観の境地で迎えたいと思うのだが、果たしてどうなるか分からない。根が単純なものだから『歎異抄』や『般若心経』を読んでも邪念は消えず、少しも無我の境地にはなれない。人生の真実に近づく前に眠くなってしまう。ところが海坂藩の藩士たちを描く藤沢周平の小説には心が落ち着き、仏典よりも支えになっている。いちばん心に染みているのは『三屋清左衛門残日録』の最後の場面である。

幼少のころからの知り合いの大塚平八が隠居してから中風になった。見舞いに行ったら病床に伏して、立てないでいる。ある日、近くを通りかかったら、偶然歩行練習をしている平八を目撃する。

「いよいよ歩く習練をはじめたか、と清左衛門は思った。人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終わればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた」(藤沢周平著。『三屋清左衛門残日録』)。

●来年4月で平成は終わる。昭和、平成を振り返るような余裕はないけれど、好きな作家や俳優の多くは逝ってしまった。明治どころか昭和も確実に遠くなりつつある。わが人生も野球でいうならば8回の裏か、ならば一層『かがり火』で出会った人々に感謝をささげ、少しでも力になれることがあったら全力を尽くしたいと思うのである。  (KS)