葉っぱ塾」と吉永小百合さんの原爆詩朗読会

八木文明(山形県長井市・高校教諭)

 6年越しの片思いが成就した

 昨年10月末の土曜日、山形県小国町の山奥にある、私立・基督教独立学園高校(以下、学園)の講堂を会場に、女優の吉永小百合さんをお迎えしての原爆詩朗読会を開催した。主催してくださったのは「学園COST(Counsil Of Students & Teachers)」という組織で、主にこの幹事を務める生徒たちが準備や当日の運営を担ってくださった。私が主宰する「葉っぱ塾」は共同企画の立場で準備に携わった。学園では土曜日も授業はあるのだが、この日は特別に授業をなくして会の準備に当たっていただくなど、格段のご配慮をいただいての実施となった。

 私は30年近く県立高校の教員を務めてきたのだが、「平和教育」や「平和学習」にかかわる中で、さまざまな学習会や研修会に参加する機会が多くあった。吉永小百合さんが原爆詩の朗読をライフワークとして取り組んでおられることを最初に知ったのも、そうした活動を通じてのことだった。吉永さんは97年に、広島の原爆詩を収録したCD『第二楽章』を、99年には『第二楽章〜長崎から』を出され、これをきっかけにして、いっそう多くの人々に吉永さんの取り組みが広まっていった。吉永さんの一ファンとして、また、少しばかり平和の問題にかかわってきた教員として、さらに、自然と芸術を愛する一人の市民として、いつか吉永さんの朗読の会を山形の地で開催できたらと思い、吉永さんに手紙を差し上げたのは99年5月のことだった。そのおよそ3カ月後、思いがけず吉永さんご自身からお手紙を頂いた。その美しい筆跡のお手紙は、「朗読会の依頼がたくさんあって、今すぐに応えることができませんが、いつか」という内容であった。

 いつか本当に会を開催できるという確信はなかったが、何とかつながりだけは切れないようにと思い、それ以後、私が“自分通信”として96年夏以来出していた「LEAF」という印刷物(後述)を、勝手ながら季節の便り代わりにと送り続けていた。今回分かったのだが、吉永さんはこの「LEAF」にしっかり目を通してくださっていた。

 最初に手紙を差し上げてから6年近くたった昨年2月末に、吉永さんの秘書の方から「年内に何とか開催可能のようです」とのお電話を頂いた。こちらのことを“順番待ち”の中に加えてくださっていたことを知り、まるで6年越しの片思いが成就したかのようなうれしさがこみ上げてきた。と同時に、その電話で、「吉永小百合の名前で人を集めたり、マスコミを使って事前に広報したりすることのないようにお願いしたい」と伝え受け、実現することになったこの企画の“重さ”のようなものも感じた。また、吉永さんが、とりわけ若い人たちにそのメッセージを伝えたいとお考えであること、出演料や謝礼などはいっさい受け取られないこともお聞きし、頭の下がる思いがした。

 最初の手紙を差し上げる10年ほど前の88年、私は、「山形日本フィルの会」の活動を立ち上げ、それ以来、市民による山形県内での日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートの企画に携わってきた。“音楽が聴ける平和いつまでも! 市民による日本フィルのコンサート”というモットーが示すように、この会の活動は一種の平和運動であると考えてきた。

また、6年前に始めた「葉っぱ塾」の活動は、“大人も子どもも森で遊べ”のもとに活動を続けているのだが、自然の中の人間、地球の一構成員としての人間の位置を知り、謙虚な姿勢で生活してゆくことを学ぶというような活動は、世界が平和でなくては決してできないものである。私たち市民が、それぞれの立場とフィールドの中でこだわりを持って多様な活動を継続的に展開してゆくことは、「平和」という花を咲かせるための土壌をつくることになると私は考えてきた。そこで私は、吉永さんの朗読会を、これまでの私自身の「平和」を意識した活動の延長として、また、吉永さんが発信し続けておられるメッセージを多くの若者たちに受け止めてもらう絶好の機会として位置付けたいと考えたのだ。

一人ひとりの心に「平和の種」をまく原爆詩

 どこで、どのような形で会を行うかをあれこれ考えていて思い当たったのが、この小さな学園のことだった。この学園では数年前、アフガニスタンで地道な支援活動を続けている「ペシャワール会」の中村哲さん(会の現地代表、医師)を招いての講演会を、生徒たちの手で実現させたことを思い出したのだ。生徒は入れ替わっているわけだが、普段から平和の問題や憲法の学習を深めておられる学園の方々と共にこの会をつくってゆくことが最良ではないかと考えた。そしてこの話を、学園の教員であり、また「LEAF」の読者でもあるI先生ご夫妻を介してお伝えしたところ、快く開催をお引き受けいただくことができたという次第である。COSTという組織の現在の議長を務めているSさんという女生徒が、朗読会の準備のリーダーとなってくださったのだが、驚いたのは、中村哲さんの講演会を中心になってやり遂げたのがSさんのお兄さんとのことだった。

 学校行事や授業の合い間を縫うようにしての準備は、正直言って、そんなに順調に進んだとは言えなかった。私と学園、学園と吉永さんの事務所、吉永さんの事務所と私というように、“三角関係”で電話やファクシミリをやり取りし、また、I先生宅をお借りして何度か打ち合わせを行った。最終的に会の進め方が決定したのは何と、会の前日に吉永さんが赤湯温泉の宿にお入りになった後、宿の一室を借りての三者による打ち合わせの席上でのことだった。

 翌日昼少し前、吉永さんを後部座席に乗せて、緊張して学園へと向かった。車内でお話ししていて、本当に飾らない方という印象であった。主催する側のさまざまな大変さに配慮してくださっておられることが感じられた。学園に着くとすぐに講堂でのリハーサル。マイクの高さ、いすの位置、照明の角度などを入念にチェックしておられた。

 朗読に先立って、生徒の一人が演奏するパイプオルガンで会が始まった。その後に、今回の参会者が原爆について基礎的な知識を持っておいてほしいという主催者側の考えで、原爆についての簡単な話題提起や、情報の紹介が行われた。特に注目されたのは、原爆の犠牲者の数が、日本側の数値とアメリカの資料の中の数値では、後者がずっと少なく記されているということだった。

 いよいよ吉永さんの朗読である。ステージに上がり、中央のいすに座られてから、吉永さんは、今回の会が持たれた経過を簡単に話してくださった。その中で私の名前も含めて語ってくださったことで、私はもう感激の極みであった。初めて吉永さんに手紙を差し上げてからの6年間のことが脳裏に去来し、ついにこの日が来たという感慨に満たされていた。

吉永さんの朗読は、必ず、峠三吉の『序』という詩から始まる。もちろん今回もそうであった。吉永さんの朗読は、どちらかと言えば抑えられた声で、ゆっくりと進む。そのことが、詩の題材となっている原爆直後の光景や家族を失った深い悲しみに対する聞き手の想像力を高めることにつながっているように思われた。朗読は『生ましめんかな』(栗原貞子作)、そして10分以上かかる大作『慟哭』(大平数子作)と続いた。一編を読み終えられては静かに目を閉じ、またその次の一編へ。時間が止まったように感じられ、吉永さんの声と、静かなBGMと、聴衆の鼻をすする音だけが聞こえていた。

 静かに朗読が終わると、吉永さんのご希望で、参会者全員で『折り鶴』という曲を歌った。この曲は、梅原司平さんというシンガー・ソングライターの作品である。いつからかは存じ上げないが、吉永さんがこの歌に注目され、朗読会の締めくくりに歌うことが多いのだとのことだった。初めて聞く方も多かろうと、主催者は、開会前の会場に梅原さんのCDを流し、覚えてもらおうとの配慮をしてくださっていた。学園の生徒たちが壇上とステージ下に勢ぞろいし、いったん下がられた吉永さんも、女生徒の間に入り、ピアノの伴奏による全員合唱となった。この歌に込められた平和への願いは、参会者全員のものであったと思う。

代表の生徒から吉永さんに感謝のメッセージが伝えられた後、学園の生徒たちがお礼の意味を込めて『ヒロシマのある国で』という合唱曲を歌ってくれた。ステージ下のいすに座られた吉永さんは、じっと耳を傾けておられた。男声がよく響く、素晴らしい合唱であった。

 一般の方々には、生徒たちが広島の原爆資料館から借り受けた写真などを見てもらいながらお帰りいただく一方で、講堂では、生徒たちと吉永さんの交流が持たれた。吉永さんが問い掛け、また生徒たちも問い掛け、記念の写真を撮ったりしながら、本当に和やかなひとときであった。

 名残惜しさに後ろ髪を引かれる思いで、吉永さんご一行や、わざわざこの日遠くから駆け付けてくれた友人たちを、赤湯の駅まで見送った。ホームに立たれた吉永さんは、小柄でほっそりしておいでで、どこにこのような地味な取り組みを続けてこられたパワーが潜んでいるのかと思うほどであった。動き出した列車の中の吉永さんに、心からのお礼を申し上げた。

 日本を代表する大女優の吉永さんであるが、この原爆詩の朗読の取り組みは、全くのボランティアである。それによって名声を得ようとするのでなく、また自己宣伝に使うわけでもなく、ひたむきにこの朗読を続けておられるのだ。その志をしっかりと受け止め、深め、広めてゆくことは、回り道のようであっても必ずや世界の平和に貢献することにつながるはずである。吉永さんは、私たち一人ひとりの心の中に「平和の種」をまいてくださったのだと思う。その種をどう育ててゆくかが、これからの私たちそれぞれの課題になってゆくのだと感じている。

 

山が最高の教育の現場である

次に、『かがり火』102号でもご紹介いただいたが、私が主宰する「葉っぱ塾」のことにあらためて触れてみたい。私が住んでいる山形県長井市は、朝日連峰の南東の登山口になっており、森林生態系保護地域に指定された広大なブナの原生林と長井葉山を中心とする里山とが、市街地の北西方で接している。この地域を通ろうとしていた大規模林道が、地元有志による「葉山の自然を守る会」の粘り強い反対運動が実を結んで建設中止となり、自然破壊の魔の手から逃れることができたという経緯がある。94年4月に県立長井高校に赴任した私は、3年生恒例の葉山登山に参加することになる。大雨が降った翌日、抜けるような青空の下を新緑と残雪の長井葉山に登ったあの日以来、すっかり山の素晴らしさに魅せられて12年がたとうとしている。そして、何度も葉山に登るうちに、その感動を多くの人と分け合いたいと考えるようになった。この地域に広がるブナの森を主なフィールドとしてさまざまな活動を提供する「葉っぱ塾」という名のボランティア活動を始めたのは6年前のことである。

「葉っぱ塾」は実際に活動を始めるまでに、自分の心の中で何年もの間はっきりした形を現さず、あいまい模糊とした、もやのようなものだった。高校教員として学校教育にかかわりながらも、何か決定的な要素が欠落しているような違和感を持ち続けていた。冷めた目で学校を眺めながら、かといって何を始めるのでもない自分自身に悶々とした日々が続いていた時、ヒントは画家であり詩人でもある葉祥明さんから届けられた。「八木さんは自分で“学校”を始めたらいいよ」という一言が、もやを吹き払う風の役割を果たしてくれたように今、思っている。現在の「葉っぱ塾」の構想がほぼ固まったのは99年夏ごろのことであった。

 「葉っぱ塾」の活動は単なる“自然教室”や“アウトドア・スクール”とは趣を異にしており、コンサートやセミナーの開催なども含んでいる。葉さんが寄せてくださった次の言葉が「葉っぱ塾」の性格を端的に表している。

“葉っぱ塾は、自然と芸術に触れることによって、一人一人が地球に生きる人類の一員としての意識に目覚め、知性と感性と霊性を豊かに育むためのエコ&ネイチャースクールです。従来の学校教育を超えた、新しい時代に生きる人々のための自己教育システム、 未来学校です。(葉 祥明)”

 朝日連峰の雄大かつ繊細な自然の恵みの中で私たちは、知ると知らずとにかかわらず有形無形の恩恵を享受しながら生きているわけだが、現代生活の便利さの中でそのことを意識することは難しい。自然によって生かされているという、一昔前なら当然のように理解され伝えられていたことが、もはや伝わらなくなってきている。そうであれば誰かが意識して、伝えようとする者と、新しい時代をこれから生きようとする人々との橋渡しをしなければならないのではないだろうか。「葉っぱ塾」の活動にはそんなコーディネーター的な役割もあると考えている。その役割を果たすべく、自然観察指導員、山岳ガイド、ネイチャーゲーム・リーダーなどの資格を取得し、また研修を重ねながら、ブナの森の四季の中で、さまざまなプログラムを提供できるようになってきた。

 私の一年は「葉山の自然を守る会」の仲間と恒例にしている葉山元日登山で明ける。「葉っぱ塾」としての実質的な活動は1月下旬から2月上旬にかけての“スノーシュー・ハイキング”から始まる。スノーシューは最近ようやく、その名前が知られるようになったが、北米にその起源を持つ雪上歩行用具で、日本のかんじきと同じようなものである。ほとんど技術も必要ないために、初めての人でもすぐに雪の上を歩けるようになる。ほとんど人の入らない冬の雑木林を、野生動物たちの足跡と交錯しながら歩き回るのは、この上もなく楽しい。

 3月から4月は、締まった雪を踏んで葉山山頂を目指す“春の葉山”を何回か企画する。

3月は、まだ真冬の姿の大朝日岳や祝瓶山(いわいがめやま)を眺めることができる。4月になれば、ふもとのほうからスプリング・エフェメラルと称される春の花々が咲き始める。5月は新緑と残雪、そして何より山菜を味わう季節でもある。山菜名人を講師に招き、みんなでワイワイと沢沿いを歩いて採取する山菜は、半日で10数種類にも上る。五感の中で、味覚も重要な感覚である。

 6月からは、朝日連峰の奥にも分け入ってみる。6月中旬の祝瓶山は、ヒメサユリが満開になる。残雪と新緑のコントラストの中に咲く濃いピンク色のこの花は、山の中で見るに限る。7月は毎年、梅雨明けのころをねらって“あこがれの大朝日へ”を企画する。山頂への最短コースである古寺鉱泉から登りに一日、下りに一日かけてゆっくりと往復する。初めて山で泊まるという人には人気の企画である。

 8月は、葉山のふもとの森林公園で“子どもキャンプ”を行っている。一回の参加者は数名にし、こぢんまりとしたテント生活をする。人数が少ないから、時間の制約もほとんどない。普段は親が作ってくれる食事も、準備から自分たちでやることで、その大変さを実感する。

夜は懐中電灯とランプだけなので、トイレに行くのもおっかなびっくりの子どもたちだが、家に帰るころにはちょっぴりたくましくなっているというわけだ。

 秋は紅葉の峠道をハイキングしたり、“昭和堰をたどる葉山トレッキング”を計画することが多い。昭和堰は葉山山頂直下の沢水をふもとの長井市勧進代地区まで運ぶために、昭和初期に開削されたものである。ダムの完成でその役目を終えて後、数十年の間に藪の中に埋もれ、人々の記憶からも消え去ろうとしていたものであった。それを復元した地元の有志「昭和堰を見る会」の方々との交流から生まれた行事が、このトレッキングである。

 また不定期ではあるが、「葉っぱ塾」の重要なヒントを与えてくださった葉さんを山形にお招きしての“葉祥明ブナの森セミナー”はすでに5回を数えた。これは朝日町の宿泊施設「朝日自然観」を会場に行う1泊2日の行事で、首都圏からも多くの参加者がおいでになる。山登りは無理だという方でも、ブナの森の懐に抱かれ、静かな時の流れの中に身を置いて、心に染みるような葉さんのメッセージとゲストのミュージシャンによるたえなる音楽に、耳を傾けるのである。

子どもと一緒に感動を分かち合う大人でいたい

 朝日連峰の稜線に立ったときに眼下に広がっているブナ原生林の広大さと一人の人間のちっぽけさとの対比、下界では見ることのできない満天の星空、夜の森の静けさと暗闇の深さ、わき出す清水の冷たさ、そしていい音楽の心地よさ。さらには、平和を願う人々とのさまざまなかかわり合い。「葉っぱ塾」の活動を通しての、自然と芸術という偉大な師から得られるそれらの体験は、きっと人々の心の中にキラキラとした宝石のようになって残り、人生を生き抜いてゆくための活力の源になってゆくのではないかと思う。

 レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』の中で、“世界のよろこび、感激、神秘などを子どもと一緒に再発見し、感動を分かち合ってくれる大人”の存在の必要性が説かれているが、「葉っぱ塾」の活動を通じてその重要性が理解され、とりわけ子どもたちがこれからの世界に明るい展望を持って生きてゆけるよう、また人々が豊かな感性をはぐくんでゆくことができるよう、いろいろな体験活動の場をゆっくりじっくりつくり続けてゆきたいと思っている。「葉っぱ塾」では子どもたちと、子どもの心を持った大人たちの来訪を心待ちにしている。

 最後に、私の“自分通信”である「LEAF」という印刷物のことに触れておきたい。今回私がこの『かがり火』に寄稿することになったのも、発行人の菅原さんにこの「LEAF」をお届けしていたことがきっかけである。96年8月に第1号を出し、不定期ながら、年間ほぼ10回ほど発行してきた。昨年末で節目の第100号になった。「LEAF」という名は、私に気づきのきっかけを与えてくれた葉山と、90年ごろから交流を続けさまざまな影響を受けていた葉祥明さんに共通する「葉」にちなんで名付けたものである。そしてその延長線上に「葉っぱ塾」が誕生することになるのである。「LEAF」は世界で起こるさまざまな出来事について自分が感じたことや、その時々に選んだ詩や、年に20回ほども登る長井葉山の四季折々の様子を書き連ねたものである。「葉っぱ塾」の活動が始まってからは、“葉っぱ塾からのお知らせ”も兼ねるようになっている。印刷物ではあるが、自分では私信と考えている。現在、北は北海道から南は福岡まで、およそ150名ほどの方々にお送りしている。このデジタル化時代に1周以上も遅れた、ワープロで作成している超アナログ通信である。感覚を研ぎ澄ませて、これからも書き続けていきたい。

【葉っぱ塾】 〒993-0053 山形県長井市中道2-16-40 TEL&FAX  0238・84・1537

 MAIL  happa-fy@dewa.or.jp

わが友、一ノ矢君の一途な人生 フリーアナウンサー(ヒヤ小林) 小林賢二

1979年 沖縄

沖縄が本土復帰して7年目に当たる1979年。イルカの調教師になりたかった私は、生まれ育った横浜から琉球大学農学部畜産学科に入学した。当時イルカショーといえば、「沖縄海洋博記念公園」が一番と、私は勝手に思っていた。

当時の琉大は、那覇市首里にあった。現在、大学は中頭郡に移転し、その跡地は、「守礼之門」などで知られる「首里城」に生まれ変わり、世界遺産となった。当時「守礼之門」は、まるで琉大の正門のようだった。

私が4年間住んでいた首里の琉大男子寮も移転し、現在、跡地は、首里城隣の「沖縄県立芸術大学」となっている。

同じ年、一人の男が琉球大学理工学部に入学し、同じく男子寮に住むこととなった。

男子寮は鉄筋で4人部屋の中寮と、木造で3人部屋の北寮・南寮という3棟からなっていた。私は北寮102号室、彼は南寮110号室と離れていたので、本来は頻繁に顔を合わせることなどないはずである。

しかし、彼と私はよく寮内で顔を合わせていた。なぜならば、彼がほとんど毎日、隣室の北寮101号室に来ていたからである。

当時北寮101号室は、柔道部員のたまり場となっていて、部室兼合宿所兼コンパ部屋と化していた。男子寮では名物部屋だった。では、彼が柔道部員だったかというと、そうではない。彼は相撲部員なのである。

彼の名は、松田哲博君。私と同じ昭和35年生まれ。5人兄妹の3男として、闘牛や長寿で知られる、鹿児島県は徳之島に生まれた。小さいころから大の相撲好きで、地元の相撲大会などに参加しては、好成績を収めていた。徳之島は、祝い事があるたびに相撲を取るような、相撲の盛んな土地柄でもあった。彼は、柏鵬時代からテレビの相撲中継には夢中だった。ちなみに、このころの徳之島は、NHKしか映らなかった。中学・高校時代の彼は、相撲部がなかったため柔道部に所属していた。

琉大入学当初、柔道部からの誘いを断り相撲部に入った・・・のではなく、相撲部をつくってしまったのだ。当時の琉大には、相撲部がなかった。

彼は、「相撲がしたい」という一念で、たった1人で相撲部を立ち上げたのである。琉大に相撲部をつくるという夢は、実は琉大受験の時から彼にはあった。その証拠に、彼は入学時、マワシを持って沖縄入りしている。彼は親への負担を考えて、当初から国立大を志望していたが、当時の国立大で相撲部があったのは、東大と京大だけ。両校への入学は難しいと考えた彼は、自分が入った大学に相撲部をつくればよいと考えていたのだ。彼の熱意に、勧誘するはずだった柔道部の先輩たちなども、相撲部創設に全面的に協力するようになった。

彼は、新入生オリエンテーションに飛び入りして「相撲部をつくりますので、一緒にやりませんか」と呼び掛けたり、授業中に隣の席に座った学生を勧誘するなど、部員集めにとても苦労した。すぐに大勢の部員が集まる部もあるなか、相撲にはほとんどの学生が関心を示さず、なかなか集まらなかった。しばらくはたった1人きりだったが、1カ月ほどして、同じく男子寮に住む1年生が入部してくれた。

それから2人で、その10年前まで授業で使っていたという首里のグラウンドにあった雑草の生い茂る土俵跡の草をむしり、地ならしをして土を固めた。そして近くの消防署で古い消防ホースを分けてもらい、中に砂を詰めて俵として埋め込み、2カ月かけて土俵を復活させた。まさにゼロからの出発だった。

こうした彼の努力によって、琉大相撲部の歴史は幕を開けた。

一ノ矢の誕生

翌1980年、2人が入部して4人となり、大学側に正式に申し出て、相撲部として認めてもらった。しかし、まだ4人。学生相撲選手権には、最低5人いないと出場できない。結局、この年秋の「全国学生相撲選手権大会」へは、柔道部から1人借りて5人になり、初参加することができた。柔道部の面々は、松田君の真摯で純朴な人柄に引かれて、相撲部創立後も常に彼を応援し、協力し続けていたのである。

その後、毎年2人ずつ新入部員が入り、1982年2月には、移転先である中頭郡の琉大新キャンパスに、またまた手作りで新しい土俵を作った。

同年6月、4年生の彼は「西日本選手権」で、2部リーグながら団体3位、個人では、得意の「押し」や「出し投げ」を駆使して、準優勝という好成績を挙げた。部員数も8人となり、彼がまいた種が徐々に芽を出し始めたのである。

そして1983年3月、彼も私も琉大を卒業した。

私は、畜産学科でありながら「イルカの調教とは、イルカとの会話」と言われた一言から、会話を学ぼうと、小学校時代の夢だったアナウンスの勉強をし、全国各地の放送局を受験。すべての局に落ち、最後に沖縄石垣島のケーブルテレビに就職した。

彼は、理工学部物理学科の知識を生かし、当時採用率2〜3%という難関の、沖縄県高校物理の教員採用試験に合格した。そして最終の3人まで残っていた。しかし、この年の採用枠はたったの1人だった。

彼は、採用されるかどうか分からないし、悔いを残したまま教職に就くよりはと、高校教師の道をあっさり断念してしまう。そして、何と相撲取りになることを決意した。横綱になれるかどうかの試算より、とにかく相撲の世界に身を投じたかったのである。

当時、徳之島出身の第46代横綱・朝潮(4代目朝潮)が親方を務めていた高砂部屋は、徳之島で合宿をしたことがあった。彼は大学時代の夏休みに故郷徳之島に帰って、合宿に参加させてもらったことのある高砂部屋に、卒業を前に電話で弟子入り志願した。だが、身長173?以上、体重75?以上という新弟子検査基準に、身長170?弱、体重80?弱(当時)の彼は、入門を断られてしまう。わずか3?の身長不足のために(現在は第2次検査基準では、身長167?以上、体重67?以上、運動能力テストあり)。

彼は3月の卒業を待って、大阪場所のため大阪入りしていた、久成寺にある高砂部屋の宿舎を訪ねた。しかし、結果は同じ。それでも彼は、角界入りをあきらめようとはしなかった。

たまたま入ったお店に、若嶋津関(現松ケ根親方)がいらした。関取の紹介で二子山部屋に弟子入りを志願するも、同じ理由で断られた。

それから彼は、大阪入りしている相撲部屋を片っ端から回った。その傍ら、身長を伸ばすために、ありとあらゆる方法を試していた。

そして、やっと拾ってくれたのが、当時若松部屋の故先代若松親方だった。

散々頼み込んだ揚げ句、居候生活が許された。居候といっても、他の弟子たちと同じようにけいこにも参加できたので、彼にとってはその中にいられるうれしさでいっぱいだった。

故先代若松親方は、現役当時「褐色の弾丸」の異名をとった元関脇・房錦である。故先代若松親方は、元大関・朝潮(5代目朝潮)に部屋を継承した。その後、若松部屋と高砂部屋が合併して、現在の高砂部屋ができたのだ。

居候生活8カ月の後、彼の相撲に対する熱意が通じ、身長は足りなかったものの、新弟子検査に合格させてもらい、当時の若松部屋(現在の高砂部屋)へ正式に入門した。相撲の世界に年齢や学歴は関係ない。一日でも先に入門すれば兄弟子である。大卒で入っても新弟子は新弟子。中卒の兄弟子、大卒の弟弟子もいる。

彼は当時22歳。入門時点ですでに部屋の最年長だった。しかし、彼にとってそんなことは、全く関係のないこと。年下の関取の背中を流すことなど、何でもないことだった。同83年11月、福岡。彼は夢にまで見た本場所の初土俵を踏んだ。ここに、大相撲界初の国立大学出身力士「一ノ矢」が誕生した。

     あれから23年

あれから23年たった今、2006年1月。平成18年初場所の番付表に、一ノ矢の名がある。序二段東108枚目。彼は今もなお、相撲を取り続けているのだ。

昨2005年6月。それまで、昭和初期に活躍した元十両・源武山が持っていた44歳6カ月の、昭和以降の現役最年長記録を塗り替えた。昨年12月、彼は45歳になった。今なお角界現役最年長記録を更新し続けている。平成18年初場所は、彼にとって133場所目となる。この間、曙・貴乃花・若乃花・武蔵丸らが入門し、横綱となり、引退していった。また、彼より1年後に入門した、8歳若い琴ノ若も、昨年ついに引退し、年寄「佐渡ヶ嶽」を襲名した。

今、彼は部屋の中でもなくてはならない存在となっている。相撲界で初めて相撲部屋のホームページを作ったのは彼である。今も高砂部屋のホームページは、彼が担当している。その他、新弟子の面倒から、後援会関係者との連絡など、彼の存在なくしてはできないことは数多い。

     現実の暮らし

新弟子検査を受け、せっかく入門しても、1年以内におよそ半数の人が辞めてしまうといわれる厳しい世界。完全なる縦割り階級社会、実力主義の相撲界。

ここであえて、番付をおさらいしておきたい。

最高位が横綱。次が大関。そして関脇、小結。この大関・関脇・小結を三役という。次が前頭(平幕)。ここまでの40人くらいが幕内力士。次に十両。この十両までが「関取」と呼ばれる人たちである。

以下の、幕下、三段目、序二段、序ノ口は、通称「若い者」と呼ばれ、「関取」ではない。あくまでも「修業の身」なのだ。幕下以下は「世話をする人(付け人)」、十両以上は「世話をされる人(関取)」なのである。十両最下位と幕下筆頭では、ほんの番付1枚の違いだが、その差は天と地ほど違う。「大銀杏」を結えるのも、「化粧まわし」を締められるのも、結婚が許されるのも十両以上。序二段は真冬でも素足に雪駄履きで、足袋をはくことさえ許されない。そして最後に、前相撲。これは序ノ口以下の、番付外である。

平成18年初場所の番付では、横綱から小結までが東西合わせて9名、前頭が筆頭から東方が17枚目、西方が16枚目までで、東西合わせて33名。十両が筆頭から14枚目までの東西14名ずつ。すなわち「関取」と呼ばれる人たちは、東西合わせておよそ70名。全力士の1割にも満たないといわれている。以下、幕下が東西それぞれ60名、三段目が東西それぞれ100名、序二段が東西それぞれ124名ずついるので、今の番付でいくと、彼は上から300番目くらいの序列にいることになる。

彼のこれまでの最高位は、30歳の時の東三段目6枚目。28歳と32歳の時の2回、序二段全勝優勝をしている。幾度となくけがにも泣かされた。(余談だが、彼の兄は医者である)が、これまで、公傷で3日休場した以外は、休まず毎場所土俵に上がり続けている。

彼にとって、兄弟子はもう1人もいない。年下で「親方」となった人もいる。いくら弟弟子でも、年が若くても、出世したほうが偉い。同じ部屋には、1999年入門当時、角界のしきたりや心得などを教えた、横綱「朝青龍」がいる。横綱は、今でも一ノ矢を「さん」付けで呼ぶという。

一方、彼の生活を見てみると、住まいは40畳の大部屋で、19人の若者たちと寝起きを共にしている。個室で生活できるのは、十両以上の「関取」だけである。毎朝6時前には起床。けいこの後、食材の買い出し。ちゃんこ番の時はちゃんこ作り。自分より20歳以上も若い力士たちの、食事の世話もしなければならない。風呂も、番付が上の力士から先に入る。

序二段の場合、本場所中は1場所7番相撲を取る。取組は午前9時ころから、序ノ口、序二段、三段目、幕下、十両、幕内という順で行われる。序二段の多くは午前中に取組が終わる。彼は午前中の観客の少ない中で、ときには親子ほども年の離れた力士を相手に相撲を取る。

昨年初場所4日目、彼の対戦相手は16歳だった。その差28歳。一ノ矢が制したこの一番が、戦後最大の年齢差による取組となった。

また金銭面では、幕下以下に給料や退職金(協会では養老金という)はない。その代わり、本場所ごとに協会から場所手当が支給される。序二段で1場所8万円。年6場所なので年間48万円。

また、勝ち星を1つ挙げるごとに、勝星奨励金がもらえる。序二段の場合、勝ち星1つ2000円。さらに勝ち越しが決まると、1点4500円の勝越奨励金も出る。勝越奨励金とは、勝ち数マイナス負け数で、例えば5勝2敗なら勝ち越し3点となり、1万3500円。優勝すれば20万円の賞金がもらえる。

一方、関取には給料が出る。十両103万6000円。前頭130万9000円、横綱282万円。実際には、このほかいろいろな手当や報奨金が付く。幕内優勝賞金は1000万円である。

また人気力士によっては、多額の懸賞金を手にすることもある。懸賞金は1本6万円。うち5000円は協会が事務的経費として差し引き、力士本人には5万5000円(うち2万5000円は税金納付のために協会で天引きし、本人名義で積み立て)が渡る。ただし、懸賞金が出るのは、幕内以上の取組と決められている。とにかく、番付によって収入には大きな差があるのだ。

     一ノ矢と私

独身の一ノ矢は、大部屋住まいで、決して裕福な暮らしではない。もしも人の価値を、地位やお金や持ち物で判断するとしたら、彼は見向きもされないだろう。

では、何故私は、こんなにも彼に引かれるのだろう。彼は何故、こんなにも人を引き付けるのだろうか。

一昨年10月。私は琉大時代の友人と2人で、初めて高砂部屋近くの焼き鳥屋に彼を訪ねた。大学卒業以来、約20年ぶりに会った彼は、とても同い年とは思えないほど、筋肉質のお相撲さんだった。現在、身長170?、体重100?という。

彼と話をしているうちに、その実に謙虚な態度に、人を引き付ける魅力と、苦労人の姿を見た気がした。

酒が入り、琉大時代の思い出話が進むにつれ、互いの頭の中には、あの「男子寮」が鮮明によみがえってきた。私の前にいたのは「一ノ矢」ではなく、松田君だった。

「あのころは、お互い随分ハチャメチャなこともやったな」と爆笑しながらも、それが共通の感想だった。

それだけではない。お互い幾つかの共通点を見つけ出すこととなった。

彼は、「俺の相撲の原点は、琉大にある」と言う。その気持ちを裏付けるように、彼はいまだに、琉大相撲部の後輩たちに胸を貸すことがある。昨年1月には、母校に土俵まで寄贈している。また一昨年1月には、琉大からの依頼で、「私と相撲人生」という講演も行っている。母校からのたっての依頼のため、修業の身ではあるが特別に許可され、実現した。

酒を酌み交わしながら、話が相撲のことになると、松田君が「一ノ矢」になった。何よりも驚いたことは、彼の向上心と探究心である。

「まだ納得のいく四股が踏めないんだ」

「下腹に力を込めて肩の力を抜く。これができれば、本来の力が出せるはず。難しいのは<力を込めることより、抜くことなんだ」

彼の一言一言に、私はただただ驚嘆するばかりだった。

     さまざまな声

「一ノ矢は恵まれている。本来ならとっくに引退せざるを得ない。親方のひいきがあるからできることだ」「昇進する見込みのない者がいつまでも土俵にしがみついているのは相撲道に反する」「彼は相撲取りでいる限り、衣食住が足りているのだから苦労じゃない。わがままを通しているだけだ」など、彼に対しては相撲ファンからの厳しい意見もある。彼の生き方を「職業選択の失敗」と見る人もいる。そういう声を本人が知らないはずはない。それでも彼は、幼いころからの夢だった相撲を、今も取り続けている。

昨年12月23日の新聞に、「新入社員入社後半年間の意識変化調査」という調査結果が掲載された。それによると、今の若者には、能力給よりも年功序列や安定志向が増えているとあった。転職を希望する若者の数は大幅に減少して、できるだけ長く同じ会社にいたいという結果が出た。

一ノ矢のような生き方は、今の若者たちからすると、人生の負け組なのだろうか。夢を追い求めず安定した生活を確保することが、勝ち組になるのか。

彼には「何歳まで相撲を取ったら引退しよう」などという計算はないのだろう。

彼の勝敗(星取表)は、テレビでも紹介されなければ新聞にも載らない。それでも私はインターネットで彼の勝敗を調べ、一喜一憂する。お金もうけがはやる世の中だが、私は、幼少のころの夢を今でも追い続けている松田哲博君を、最後まで応援していきたいのである。