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わが友、一ノ矢君の一途な人生 フリーアナウンサー(ヒヤ小林) 小林賢二
1979年 沖縄
沖縄が本土復帰して7年目に当たる1979年。イルカの調教師になりたかった私は、生まれ育った横浜から琉球大学農学部畜産学科に入学した。当時イルカショーといえば、「沖縄海洋博記念公園」が一番と、私は勝手に思っていた。
当時の琉大は、那覇市首里にあった。現在、大学は中頭郡に移転し、その跡地は、「守礼之門」などで知られる「首里城」に生まれ変わり、世界遺産となった。当時「守礼之門」は、まるで琉大の正門のようだった。
私が4年間住んでいた首里の琉大男子寮も移転し、現在、跡地は、首里城隣の「沖縄県立芸術大学」となっている。
同じ年、一人の男が琉球大学理工学部に入学し、同じく男子寮に住むこととなった。
男子寮は鉄筋で4人部屋の中寮と、木造で3人部屋の北寮・南寮という3棟からなっていた。私は北寮102号室、彼は南寮110号室と離れていたので、本来は頻繁に顔を合わせることなどないはずである。
しかし、彼と私はよく寮内で顔を合わせていた。なぜならば、彼がほとんど毎日、隣室の北寮101号室に来ていたからである。
当時北寮101号室は、柔道部員のたまり場となっていて、部室兼合宿所兼コンパ部屋と化していた。男子寮では名物部屋だった。では、彼が柔道部員だったかというと、そうではない。彼は相撲部員なのである。
彼の名は、松田哲博君。私と同じ昭和35年生まれ。5人兄妹の3男として、闘牛や長寿で知られる、鹿児島県は徳之島に生まれた。小さいころから大の相撲好きで、地元の相撲大会などに参加しては、好成績を収めていた。徳之島は、祝い事があるたびに相撲を取るような、相撲の盛んな土地柄でもあった。彼は、柏鵬時代からテレビの相撲中継には夢中だった。ちなみに、このころの徳之島は、NHKしか映らなかった。中学・高校時代の彼は、相撲部がなかったため柔道部に所属していた。
琉大入学当初、柔道部からの誘いを断り相撲部に入った・・・のではなく、相撲部をつくってしまったのだ。当時の琉大には、相撲部がなかった。
彼は、「相撲がしたい」という一念で、たった1人で相撲部を立ち上げたのである。琉大に相撲部をつくるという夢は、実は琉大受験の時から彼にはあった。その証拠に、彼は入学時、マワシを持って沖縄入りしている。彼は親への負担を考えて、当初から国立大を志望していたが、当時の国立大で相撲部があったのは、東大と京大だけ。両校への入学は難しいと考えた彼は、自分が入った大学に相撲部をつくればよいと考えていたのだ。彼の熱意に、勧誘するはずだった柔道部の先輩たちなども、相撲部創設に全面的に協力するようになった。
彼は、新入生オリエンテーションに飛び入りして「相撲部をつくりますので、一緒にやりませんか」と呼び掛けたり、授業中に隣の席に座った学生を勧誘するなど、部員集めにとても苦労した。すぐに大勢の部員が集まる部もあるなか、相撲にはほとんどの学生が関心を示さず、なかなか集まらなかった。しばらくはたった1人きりだったが、1カ月ほどして、同じく男子寮に住む1年生が入部してくれた。
それから2人で、その10年前まで授業で使っていたという首里のグラウンドにあった雑草の生い茂る土俵跡の草をむしり、地ならしをして土を固めた。そして近くの消防署で古い消防ホースを分けてもらい、中に砂を詰めて俵として埋め込み、2カ月かけて土俵を復活させた。まさにゼロからの出発だった。
こうした彼の努力によって、琉大相撲部の歴史は幕を開けた。
一ノ矢の誕生
翌1980年、2人が入部して4人となり、大学側に正式に申し出て、相撲部として認めてもらった。しかし、まだ4人。学生相撲選手権には、最低5人いないと出場できない。結局、この年秋の「全国学生相撲選手権大会」へは、柔道部から1人借りて5人になり、初参加することができた。柔道部の面々は、松田君の真摯で純朴な人柄に引かれて、相撲部創立後も常に彼を応援し、協力し続けていたのである。
その後、毎年2人ずつ新入部員が入り、1982年2月には、移転先である中頭郡の琉大新キャンパスに、またまた手作りで新しい土俵を作った。
同年6月、4年生の彼は「西日本選手権」で、2部リーグながら団体3位、個人では、得意の「押し」や「出し投げ」を駆使して、準優勝という好成績を挙げた。部員数も8人となり、彼がまいた種が徐々に芽を出し始めたのである。
そして1983年3月、彼も私も琉大を卒業した。
私は、畜産学科でありながら「イルカの調教とは、イルカとの会話」と言われた一言から、会話を学ぼうと、小学校時代の夢だったアナウンスの勉強をし、全国各地の放送局を受験。すべての局に落ち、最後に沖縄石垣島のケーブルテレビに就職した。
彼は、理工学部物理学科の知識を生かし、当時採用率2〜3%という難関の、沖縄県高校物理の教員採用試験に合格した。そして最終の3人まで残っていた。しかし、この年の採用枠はたったの1人だった。
彼は、採用されるかどうか分からないし、悔いを残したまま教職に就くよりはと、高校教師の道をあっさり断念してしまう。そして、何と相撲取りになることを決意した。横綱になれるかどうかの試算より、とにかく相撲の世界に身を投じたかったのである。
当時、徳之島出身の第46代横綱・朝潮(4代目朝潮)が親方を務めていた高砂部屋は、徳之島で合宿をしたことがあった。彼は大学時代の夏休みに故郷徳之島に帰って、合宿に参加させてもらったことのある高砂部屋に、卒業を前に電話で弟子入り志願した。だが、身長173?以上、体重75?以上という新弟子検査基準に、身長170?弱、体重80?弱(当時)の彼は、入門を断られてしまう。わずか3?の身長不足のために(現在は第2次検査基準では、身長167?以上、体重67?以上、運動能力テストあり)。
彼は3月の卒業を待って、大阪場所のため大阪入りしていた、久成寺にある高砂部屋の宿舎を訪ねた。しかし、結果は同じ。それでも彼は、角界入りをあきらめようとはしなかった。
たまたま入ったお店に、若嶋津関(現松ケ根親方)がいらした。関取の紹介で二子山部屋に弟子入りを志願するも、同じ理由で断られた。
それから彼は、大阪入りしている相撲部屋を片っ端から回った。その傍ら、身長を伸ばすために、ありとあらゆる方法を試していた。
そして、やっと拾ってくれたのが、当時若松部屋の故先代若松親方だった。
散々頼み込んだ揚げ句、居候生活が許された。居候といっても、他の弟子たちと同じようにけいこにも参加できたので、彼にとってはその中にいられるうれしさでいっぱいだった。
故先代若松親方は、現役当時「褐色の弾丸」の異名をとった元関脇・房錦である。故先代若松親方は、元大関・朝潮(5代目朝潮)に部屋を継承した。その後、若松部屋と高砂部屋が合併して、現在の高砂部屋ができたのだ。
居候生活8カ月の後、彼の相撲に対する熱意が通じ、身長は足りなかったものの、新弟子検査に合格させてもらい、当時の若松部屋(現在の高砂部屋)へ正式に入門した。相撲の世界に年齢や学歴は関係ない。一日でも先に入門すれば兄弟子である。大卒で入っても新弟子は新弟子。中卒の兄弟子、大卒の弟弟子もいる。
彼は当時22歳。入門時点ですでに部屋の最年長だった。しかし、彼にとってそんなことは、全く関係のないこと。年下の関取の背中を流すことなど、何でもないことだった。同83年11月、福岡。彼は夢にまで見た本場所の初土俵を踏んだ。ここに、大相撲界初の国立大学出身力士「一ノ矢」が誕生した。
あれから23年
あれから23年たった今、2006年1月。平成18年初場所の番付表に、一ノ矢の名がある。序二段東108枚目。彼は今もなお、相撲を取り続けているのだ。
昨2005年6月。それまで、昭和初期に活躍した元十両・源武山が持っていた44歳6カ月の、昭和以降の現役最年長記録を塗り替えた。昨年12月、彼は45歳になった。今なお角界現役最年長記録を更新し続けている。平成18年初場所は、彼にとって133場所目となる。この間、曙・貴乃花・若乃花・武蔵丸らが入門し、横綱となり、引退していった。また、彼より1年後に入門した、8歳若い琴ノ若も、昨年ついに引退し、年寄「佐渡ヶ嶽」を襲名した。
今、彼は部屋の中でもなくてはならない存在となっている。相撲界で初めて相撲部屋のホームページを作ったのは彼である。今も高砂部屋のホームページは、彼が担当している。その他、新弟子の面倒から、後援会関係者との連絡など、彼の存在なくしてはできないことは数多い。
現実の暮らし
新弟子検査を受け、せっかく入門しても、1年以内におよそ半数の人が辞めてしまうといわれる厳しい世界。完全なる縦割り階級社会、実力主義の相撲界。
ここであえて、番付をおさらいしておきたい。
最高位が横綱。次が大関。そして関脇、小結。この大関・関脇・小結を三役という。次が前頭(平幕)。ここまでの40人くらいが幕内力士。次に十両。この十両までが「関取」と呼ばれる人たちである。
以下の、幕下、三段目、序二段、序ノ口は、通称「若い者」と呼ばれ、「関取」ではない。あくまでも「修業の身」なのだ。幕下以下は「世話をする人(付け人)」、十両以上は「世話をされる人(関取)」なのである。十両最下位と幕下筆頭では、ほんの番付1枚の違いだが、その差は天と地ほど違う。「大銀杏」を結えるのも、「化粧まわし」を締められるのも、結婚が許されるのも十両以上。序二段は真冬でも素足に雪駄履きで、足袋をはくことさえ許されない。そして最後に、前相撲。これは序ノ口以下の、番付外である。
平成18年初場所の番付では、横綱から小結までが東西合わせて9名、前頭が筆頭から東方が17枚目、西方が16枚目までで、東西合わせて33名。十両が筆頭から14枚目までの東西14名ずつ。すなわち「関取」と呼ばれる人たちは、東西合わせておよそ70名。全力士の1割にも満たないといわれている。以下、幕下が東西それぞれ60名、三段目が東西それぞれ100名、序二段が東西それぞれ124名ずついるので、今の番付でいくと、彼は上から300番目くらいの序列にいることになる。
彼のこれまでの最高位は、30歳の時の東三段目6枚目。28歳と32歳の時の2回、序二段全勝優勝をしている。幾度となくけがにも泣かされた。(余談だが、彼の兄は医者である)が、これまで、公傷で3日休場した以外は、休まず毎場所土俵に上がり続けている。
彼にとって、兄弟子はもう1人もいない。年下で「親方」となった人もいる。いくら弟弟子でも、年が若くても、出世したほうが偉い。同じ部屋には、1999年入門当時、角界のしきたりや心得などを教えた、横綱「朝青龍」がいる。横綱は、今でも一ノ矢を「さん」付けで呼ぶという。
一方、彼の生活を見てみると、住まいは40畳の大部屋で、19人の若者たちと寝起きを共にしている。個室で生活できるのは、十両以上の「関取」だけである。毎朝6時前には起床。けいこの後、食材の買い出し。ちゃんこ番の時はちゃんこ作り。自分より20歳以上も若い力士たちの、食事の世話もしなければならない。風呂も、番付が上の力士から先に入る。
序二段の場合、本場所中は1場所7番相撲を取る。取組は午前9時ころから、序ノ口、序二段、三段目、幕下、十両、幕内という順で行われる。序二段の多くは午前中に取組が終わる。彼は午前中の観客の少ない中で、ときには親子ほども年の離れた力士を相手に相撲を取る。
昨年初場所4日目、彼の対戦相手は16歳だった。その差28歳。一ノ矢が制したこの一番が、戦後最大の年齢差による取組となった。
また金銭面では、幕下以下に給料や退職金(協会では養老金という)はない。その代わり、本場所ごとに協会から場所手当が支給される。序二段で1場所8万円。年6場所なので年間48万円。
また、勝ち星を1つ挙げるごとに、勝星奨励金がもらえる。序二段の場合、勝ち星1つ2000円。さらに勝ち越しが決まると、1点4500円の勝越奨励金も出る。勝越奨励金とは、勝ち数マイナス負け数で、例えば5勝2敗なら勝ち越し3点となり、1万3500円。優勝すれば20万円の賞金がもらえる。
一方、関取には給料が出る。十両103万6000円。前頭130万9000円、横綱282万円。実際には、このほかいろいろな手当や報奨金が付く。幕内優勝賞金は1000万円である。
また人気力士によっては、多額の懸賞金を手にすることもある。懸賞金は1本6万円。うち5000円は協会が事務的経費として差し引き、力士本人には5万5000円(うち2万5000円は税金納付のために協会で天引きし、本人名義で積み立て)が渡る。ただし、懸賞金が出るのは、幕内以上の取組と決められている。とにかく、番付によって収入には大きな差があるのだ。
一ノ矢と私
独身の一ノ矢は、大部屋住まいで、決して裕福な暮らしではない。もしも人の価値を、地位やお金や持ち物で判断するとしたら、彼は見向きもされないだろう。
では、何故私は、こんなにも彼に引かれるのだろう。彼は何故、こんなにも人を引き付けるのだろうか。
一昨年10月。私は琉大時代の友人と2人で、初めて高砂部屋近くの焼き鳥屋に彼を訪ねた。大学卒業以来、約20年ぶりに会った彼は、とても同い年とは思えないほど、筋肉質のお相撲さんだった。現在、身長170?、体重100?という。
彼と話をしているうちに、その実に謙虚な態度に、人を引き付ける魅力と、苦労人の姿を見た気がした。
酒が入り、琉大時代の思い出話が進むにつれ、互いの頭の中には、あの「男子寮」が鮮明によみがえってきた。私の前にいたのは「一ノ矢」ではなく、松田君だった。
「あのころは、お互い随分ハチャメチャなこともやったな」と爆笑しながらも、それが共通の感想だった。
それだけではない。お互い幾つかの共通点を見つけ出すこととなった。
彼は、「俺の相撲の原点は、琉大にある」と言う。その気持ちを裏付けるように、彼はいまだに、琉大相撲部の後輩たちに胸を貸すことがある。昨年1月には、母校に土俵まで寄贈している。また一昨年1月には、琉大からの依頼で、「私と相撲人生」という講演も行っている。母校からのたっての依頼のため、修業の身ではあるが特別に許可され、実現した。
酒を酌み交わしながら、話が相撲のことになると、松田君が「一ノ矢」になった。何よりも驚いたことは、彼の向上心と探究心である。
「まだ納得のいく四股が踏めないんだ」
「下腹に力を込めて肩の力を抜く。これができれば、本来の力が出せるはず。難しいのは<力を込めることより、抜くことなんだ」
彼の一言一言に、私はただただ驚嘆するばかりだった。
さまざまな声
「一ノ矢は恵まれている。本来ならとっくに引退せざるを得ない。親方のひいきがあるからできることだ」 「昇進する見込みのない者がいつまでも土俵にしがみついているのは相撲道に反する 」「彼は相撲取りでいる限り、衣食住が足りているのだから苦労じゃない。わがままを通しているだけだ」など、彼に対しては相撲ファンからの厳しい意見もある。彼の生き方を「職業選択の失敗」と見る人もいる。そういう声を本人が知らないはずはない。それでも彼は、幼いころからの夢だった相撲を、今も取り続けている。
昨年12月23日の新聞に、「新入社員入社後半年間の意識変化調査」という調査結果が掲載された。それによると、今の若者には、能力給よりも年功序列や安定志向が増えているとあった。転職を希望する若者の数は大幅に減少して、できるだけ長く同じ会社にいたいという結果が出た。
一ノ矢のような生き方は、今の若者たちからすると、人生の負け組なのだろうか。夢を追い求めず安定した生活を確保することが、勝ち組になるのか。
彼には「何歳まで相撲を取ったら引退しよう」などという計算はないのだろう。
彼の勝敗(星取表)は、テレビでも紹介されなければ新聞にも載らない。それでも私はインターネットで彼の勝敗を調べ、一喜一憂する。お金もうけがはやる世の中だが、私は、幼少のころの夢を今でも追い続けている松田哲博君を、最後まで応援していきたいのである。
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