北海道特集・魅力的な町には面白い人が住んでいる

魅力的な町とはどんな町だろうか。風景が美しい、空気や水がおいしい、温泉がある、食べ物がうまい、伝統芸能がある、人情がこまやかだ、いろいろあるかもしれないが、個性的で面白い人物が居住しているかどうかということも必要な条件の一つになるのではないか。

夢を追い続ける面白人間がいるということは、立派な地域資源なのだ。反対に、どんなに財政に余裕があって外観が整備されていても、個性的で冒険心に富んだ人がいない町は魅力がない。

地域経済の衰退で、北海道の市町村は苦しい状態にあるけれど、夢にチャレンジしようとしている人にとっては、北の大地はまだまだ懐が深くてやさしい。

佐呂間町で開催された「全国まちづくり研究会inオホーツク」に参加した帰途、原田ひろ子支局長の運転する四駆のお世話になって、中標津町、白糠町、滝川市と面白人物遭遇の旅に出た。

●飯島実さんの紙ヒコーキは中標津町に舞い降りた

飯島実さん(56歳)の作る紙ヒコーキを、何と説明したらいいだろうか。折り紙やケント紙を使った紙ヒコーキでもなく、ゴムでプロペラを回す模型飛行機でもない。素材は、発泡スチロールをニクロム線を使って薄く切ったものだった(どのように切るかは企業秘密らしい)。これまであらゆる素材を試したというが、サロマ湖畔に捨てられていた漁具のウキ(浮具)を拾って研究したところ、紙ヒコーキを作るには最高の素材であることを発見した。

形はオオタカのような大きなものから、蝶々や小鳥、金魚やクジラまでさまざまだ。そのどれもが素晴らしい滑空を見せたり、ユーモラスな飛び方をする。オオタカは、棒の先につないだ糸に引っ張られて悠々と舞い、螺旋状の吹き流しは、子どもがキャッキャッと喜ぶ奇妙な回転をする。ふわふわと綿雪のように舞い落ちるものや、部屋の隅っこまで見事な水平飛行をするものまで実に多彩だ。この不思議な紙ヒコーキを見て興奮しない子どもはいない。いや、大人だって夢中になってしまう。

飯島さんの名刺からして変わっている。四角い折り紙に住所や名前が印刷されているのだが、それを目の前で三角に折って、更に端を小さく折り込んで輪を作り、端と端を結んで、飛ばせして見せてくれた。名刺を飛ばした人に出会ったのは初めてだ。

「いつから始めたか聞かれると困るんですが、本格的にこの紙ヒコーキにのめり込んだのは、国際管制通信官として、成田飛行場に勤務していた22歳か23歳のころからでしょうか」

国際管制通信官というのは、飛行機が離陸して、外国に向かって飛行中のパイロットと交信して、方向や高度などの指示を与える仕事だ。

「今は航空保安大学校といいますが、私が入ったころは航空保安職員研修所と言っていました。ここを卒業すると国交省、当時は運輸省の国家公務員として全国の飛行場に配属されるのです。私は国際線も国内線も担当し、離島も含めて13カ所の飛行場に勤務しました」

飯島さんが紙ヒコーキに魅せらたのは、ローカル空港勤務のおかげだったという。

「田舎の空港は、飛行機の便が頻繁にあるわけではないので、次の飛行機が到着するまで時間が十分あるのです。その間、双眼鏡で飛行場周辺の空を観察していました。静まり返った空港で、いろいろな鳥の飛行を見るのは幸せな時間でした。アオサギとツルの羽ばたきはどこが違うかなんて考えながら見ているんです。私は止まっている鳥には興味がないんです。羽の色やくちばしなどを観察して、野鳥を識別することには関心がありません。ただ、鳥の羽ばたきは一日見ていても飽きないんです。ですから私の趣味はバードウオッチングではなく、フライイングバードウオッチングです」

そういう趣味が高じて、独特の不思議飛行機を次々に編み出した。スペインで開催されている紙飛行機の滞空時間を競うコンテストでは、連続優勝している。
飯島さんは4年前に早期退職した。理由については多くは語らなかったが、どうやら公務員の世界は統合や業務の再編などで、ますます窮屈になっているようだ。

それまで、千葉の官舎に住んでいた飯島さんが、新しく住まいを探さなければいけなくなった時、頭に浮かんだのは中標津町だった。

「退官する5年前は、中標津空港勤務だったんです。単身赴任だったのですが、そのころ町では、昭和2年に建築された旧北海道農事試験場根室支場の保存が話題になっていました。おそらく建築当時は根釧原野の開拓の象徴だったと思われる、ちょっとあか抜けた建物です。これが老朽化して取り壊すべきか保存すべきかの問題が出ていて、私はその建物の保存について町の人たちの相談に乗ることになり、中標津町と深く付き合うことになったのです。それが縁で、現在はNPO法人伝成館まちづくり協議会の代表理事もやっているんですよ。試験場の名称は、初代の場長の名前にちなんで伝成館と変更しました。

もう一つの理由は、いちばん下の子どもに軽い障害があって、東京の学校にはなじめなかったのです。娘が教室ではなく、職員室の隅っこで一人で勉強せざるを得ないような状況は親としてはつらい。ところが、娘をこちらの中学校に体験的に入学させてみると、同級生も先生たちも何のわだかまりも差別もなく温かく接してくれる。娘も生き生きしてくる。娘を育てるのは、ここしかないなと思ったのです」

飯島さん家族は、現在、中標津町計根別にある町営住宅に住んでいる。そして、紙ヒコーキの教室兼研究室は、伝成館の一室にある。

今、市町村はどこも人口の減少に頭を抱え、空き家が増えているが、飯島さんのケースはまちづくりのいい参考になる。飯島さんが取材されるたびに、中標津町の情報も発信されることになるからだ。面白い人間に住んでもらうことは、それだけで町の宣伝になるのである。

ちなみに飯島さんに紙ヒコーキの講師として来てもらう際には、往復の交通費以外に、一人当たりの材料費として500円が基本だという。ただしこれは参加者が200人以上の場合。参加人数が少ない場合は、講習料として若干の額を考慮してもらいたいということだった。

■飯島実さんの連絡先

〒088-2682 北海道標津郡中標津町計根別南2西3の1

TEL&FAX 0153・78・3338   au 090・8362・9989 メール minoru_I@d1.dion.ne.jp

伝成館 〒086-1153 北海道標津郡中標津町桜ヶ丘1-1
TEL&FAX 0153・73・4301

●白糠町には自由と先取の精神に富んだ面白人間が住んでいる

道外の人で、白糠町が北海道のどの辺にあるかを言い当てられる人は少ないだろう。かつては軍馬の産地だったといってもぴんとこないし、柳葉魚(シシャモ)が遡上する町といっても具体的なイメージはわかないかもしれない。しかし、一度、白糠町を訪ねて、この土地に住む面白おじさんたちと出会ってしまったら、忘れようにも忘れられない町になるはずだ。

その筆頭が、池村美博さん。役場の職員でありながら、音楽プロデュース企画の「七色仮面」を主宰していて、これまでにフォークの故高田渡、三上寛、あがた森魚や、ジャズの渋谷毅、明田川荘之などの公演をプロデュースしている。また、白糠特産のヤナギダコの串刺し「たこ串」や「炭焼き豚丼」を企画したプランナーであり、パッケージや看板を自分で描いてしまうデザイナーであり、もちろん、まちづくりのキーパーソンでもある。北海道には、従来の行政職員のイメージを破るこういう“変”差値職員は特に必要だ。交付税削減で委縮してしまい、失点を恐れて、ソツなく業務をこなす職員だけになってしまったら、北海道はますます地盤沈下を起こすだろう。

もう一人の面白おじさんは本誌支局長で、500頭の羊の飼育をしている武藤浩史さん。羊は昭和30年代前半に完全輸入自由化非関税品目になって、安価な羊肉が自由に輸入できるようになった。つまり、国内の羊農家は見捨てられたのである。それでも羊に魅せられた武藤さんは、価格ではかなわないと分かっていても、こつこつと飼育頭数を増やしてきた。武藤さんは、羊肉を単にジンギスカンの食材としか考えない風潮に大いに不満を感じて、一頭丸ごと食べきるスタイルを提唱している。胃や肝臓なども食べてもらうために、料理人と一緒になって、メニューも開発してきた。まさに、羊の伝道師なのである。

武藤さんの主張は、大切ないのちをいただくのだから、捨てるところなく内臓もすべて食べてほしいというものだ。まるで、現代版の遊牧民生活の可能性を模索しているかのようである。

『かがり火』のバックナンバーをひもといてみたら、1993年発行の38号に若々しい写真と共に、「効率第一主義ではなく、人間と自然の関係性を復活させたい」という持論が掲載されていたが、その主張は今も少しも変わっていない。

その武藤さんを中心に活動しているのが“きになる会”。メンバーは11人。白糠町の水や環境保護を中心に、町のさまざまな課題に取り組むために結成された。

白糠町を訪ねた夜、会員の消防署の村山隆一さん、クリーニング店の矢合正浩さん、役場の山本悟さん、コンビニ経営の宮本一孝さん、酪農家の田口秀男さんたちが集まって、ラム肉、エゾシカ、タコのバーベキューパーティーを開いてくれた。

武藤さんは自宅からガスコンロ、寸胴鍋を持参して、ラム肉をモンゴル風に塩ゆでしたシュウパウロウを作ってくれた。どんなに煙を上げても、大声で話しても隣近所から苦情が来ない北海道のバーベキューは楽しい。

■武藤浩史さんの連絡先 
〒088-0342 北海道白糠郡白糠町茶路基線88-1茶路めん羊牧場
TEL 01547・2・4623  
FAX 01547・2・3546

●手づくりの本格チーズで、町おこしに貢献する井ノ口和良さん

 白糠町にチーズによる新しい食文化が定着しようとしている。 (株)白糠酪恵

舎の代表の井ノ口和良さんは、「北海道は日本一の酪農王国であるにもかかわらず、乳製品の消費が少ないのはおかしいと思っていた」と語る。

 井ノ口さんがチーズ職人になるまでの経歴を簡単に紹介すると、生まれは福岡県直方市。子どものころの夢が、アルゼンチンに行って大牧場主になることだったこともあって、大学は帯広畜産大学に進学、卒業後は動物用の医薬品メーカーに就職。思うところあって7年後に退職し、大学に戻る。1年間の研究生活の後に、北海道庁に農業改良普及員として採用され、釧路管内が担当区域となって、白糠町の酪農家と付き合うことになった。

「普及員の時、毎日のように酪農家とさまざまな問題について話し合ったのですが、白糠は、茶路川、和天別川、庶路川という3本の川に囲まれていて、酪農の規模拡大には限界があるのです。そこで水平的な拡大が無理なら、垂直に掘り下げていくしかないということになって、それは乳製品の開発ではないかということになりました。皮肉なことに、今の流通システムでは、白糠町民は、地元の酪農家が搾る牛乳を飲めない。地元の牛乳の恩恵を地元住民に還元するのはチーズしかないということになりました」

理屈ではそのとおりだが、それでは誰がチーズ作りに挑戦するのかが問題だった。誰にも技術も経験もない。チーズは酪農家が片手間にやっても作れるが、それは「チーズのようなもの」でしかない。白糠町の新しい食文化を創造するおいしいチーズを作るには、本格的に腰を据えて取り組む人が要る。結局、井ノ口さんが、道庁を退職してチーズ職人になることを決心したのだった。公務員という安定した職を投げ打って、未知の海原に漕ぎ出そういう心意気に、酪農家たちは強力なスクラムを組んだ。井ノ口さんを応援するため「白糠チーズ研究会グッチーズ」を立ち上げ、物心両面にわたって支援を続けている。この応援団は現在、町内外を合わせて400人を超えている。

 一口にチーズといっても、種類は千差万別である。どんなチーズを作るのかから研究しなければならず、井ノ口さんの猛勉強が始まった。チーズに関する講習会にはすべて参加し、名前のあるチーズ工房を訪ねては教えを請うた。

「最終的には、イタリアのチーズを目指すことになったのですが、それは日本人と味覚が非常に似ているからです。最初の渡欧の時に、チーズを山ほど買ってきて、子どもからおじいちゃんまで集まってもらって、試食会を開催しました。みんなゴーダチーズのようなものにはあまり手を出しませんが、モッツァレッラは人気だったんです」

これまでの日本のチーズは、ワインと一緒に食べるフランス産のカマンベールなどデザートチーズが主流だったので、井ノ口さんたちは、普段の家庭料理にも気軽に使ってもらえるイタリアチーズを目指すことになった。

  井ノ口さんは、チーズを作るに当たって、三つの目標を掲げた。一つは、白糠という土地の恵みを存分に生かすこと。これは後に、武藤さんの羊肉や周辺の山で採れる山菜、白糠の漁港に揚がる海産物を組み合わせた多様な料理として結実することになる。二つ目は、人が幸せな気持ちになるチーズを作ること、すなわち本場の品にも負けない質の高いものを作ることだった。三つ目が、チーズ作りの仕事を通して地域に貢献することである。

井ノ口さんがチーズ留学したのは、イタリアのピエモンテ州のサルッツオという町。現地の書店に立ち寄り、チーズの作り方の本に出ていたチーズ工房に直接連絡した。

「私にチーズ作りを教えてくれたのはメラーノ・ジェルマーノさんという方でしたが、いきなり見ず知らずの日本人が飛び込んで行ったのに、泣きたいぐらい親切に教えてくれました。あまりにも親切にしてくれるので、ジェルマーノさんに“なんでこんなに親切にしてくれるんだ”と聞いたら、“困った人がいたら、お前だって、そうするだろう”と言うだけでした」

井ノ口さんは研究熱心で、短期間の間にチーズ作りのコツを習得していった。イタリア語も、日常会話なら不自由なく話せるまで上達した。

「中田英寿選手もインタビューでイタリア語で答えていましたが、イタリア語は覚えてしまうと、英語より簡単です。それにイタリア人は、イタリア語をしゃべる人を理解してあげようという気持ちに満ちあふれているので、英語圏で『お前の英語は分からないよ』というような意地悪を受けることは、イタリアでは全くないんです」

井ノ口さんは、イタリアと日本の食文化は非常に似ていると言う。

「イタリア人は野菜をたくさん食べるし、米も食べるし、タコも食べる。ほとんど食材を生かして、レモンとオリーブオイルと塩だけで味付けしてしまう料理が多い。南北に長い列島で、戦争も一緒に負けているし、私が目指す地域定着型のチーズは、ゴーダでも、カマンベールでもなくて、イタリアのチーズだということになったわけです」

 ピエモンテの丘陵地帯には、鹿がいて、猪がいて、トリュフが取れる。白糠でも丘陵地帯には、エゾシカがいて、山菜がたくさん採れて、新鮮な魚介も取れる。サルッツオの近くにはジェノバという大都市があるが、それを釧路とすると、ますます地形はと風土はよく似ていることに気が付いた。合計4回のイタリアでの修業を終えて、平成13年に工房を設立した。

「うちの工房の特徴は、酪農家14軒(夫婦での出資もあり)と有志3人の合計20名で出資をしてつくった株式会社なんです。資本金は1000万円ですが、借入金と補助金と合わせて、立ち上げ資金は3300万円でした。地元の皆さんの支援でスタートしましたから、このチーズ工房は決して私のものじゃない。取材などで、井ノ口だけが取り上げられるのはちょっと困ってしまうんです」

 今、井ノ口さんの作るチーズはじわじわと地元に浸透している。イベントの時に、フランスパンを輪切りにして、その上に酪恵舎のチーズを乗せて、フライパンで軽くあぶって出すハイジパンは、町の子どもたちに大人気である。

「私たちは派手な宣伝はしません。お金がないこともありますが、一過性のブームにはなってほしくないからです。口コミで徐々に伝わっていくのがいちばんです。普段の家庭料理に使ってもらうのが目的ですから、販売だけではなく、料理のレシピも一緒に広げていくつもりなんですよ。チーズの日本の年間消費量は1人当たり2?です。フランスとかイタリアは20?を超えています。時間をかけて広げていくしかありません」

 昨年の年商が2700万円、やっと単年度で黒字を出した。しかし、井ノ口さんたちは地域に食文化を広げることがいちばん大切なことだと考えているから、利益第一主義には走らない。

「50年後、100年後にもここに残っていて、地域を支えているということが重要なことだと思っています。僕が死んだらおしまいというのでは困るので、後継者が集まってくるような事業体にしていきたいと思っています」

開拓者精神が旺盛で、謙虚な挑戦者がいる限り、その町もまた、希望の明かりが消えることはないだろう。

■井ノ口和良さんの連絡先 チーズ工房 (株)白糠酪恵舎

〒088-0342 北海道白糠郡白糠町中茶路 TEL&FAX 01547・2・5818

●木の上に家を造ってしまった、アウトドアガイドの横田宜伯さん

 ジョニー・ワイズミュラーのターザンがヒーローだったころ、少年だったわれわれはジャングルの木の上の家にあこがれた。下界ではライオンやワニがうろうろしているけれど、木の上は安全だった。木の上の家に思いをはせるだけで、母親の小言も宿題も忘れてわくわくするのだった。いつか馬齢を重ねて、すっかりくたびれたおじさんになってしまったけれど、白糠町で木の上の家を見上げた時、忘れていた感覚がよみがえって来るのだった。

 はしごを伝って上がると、ベランダがあり、5畳ほどの立派な小屋があった。水道もガスもトイレもないけれど、部屋の中にはストーブがあった。

 この小屋を造ったのが横田宜伯さん(41歳)。白糠町に移住してまだ2年目だ。

「2年前に、阿寒町から白糠に越してきましたが、出身は大阪です。北海道に来る前は、名古屋でアウトドアショップを経営していました。道具類やウエアを売るだけでなく、カヌー教室などを企画して、15年前ぐらいから毎年のように北海道にお客さんを連れて来ていたんです。そのうち、店を経営するよりもこちらでアウトドアガイドをするのが面白くなって、店をたたんでしまいました」

横田さんは、阿寒町にログハウスを建てて移り住み、道外からのお客さんにシーカヤックやトレッキングの案内をすることを職業にした。しかし、阿寒町では、横田さんの生き方は周囲の人が理解できなかったらしい。

「犬ぞりを始めたくて、広い土地を借りたいと思ったのですが思うようにいかなくて、武藤浩史さんに声を掛けてもらって、白糠町に移りました」

横田さんの生き方を理解できなかった人は、もう一人いた。奥さんの実家から、大阪に戻って一緒に暮らしてほしいという要請が来たのだが、北海道に魅せられてしまった横田さんは戻る気はなかった。結局、奥さんに逃げられたというか捨てられたというか、離婚してしまった。

「僕の勝手な生き方に、女房が愛想を尽かしたというところでしょうか」

離婚してまでも住み続けたい魅力が、北海道にはあるのだろう。白糠町では、武藤さんの紹介で、役場の人にも紹介され、いつの間にか、町営のキャンプ場の管理人におさまった。といっても、草ぼうぼうの原っぱの整備を任されたというのが本当のところらしい。

北海道のオートキャンプ場はどこもしゃれているから、整備されていないところに客は来ない。管理人になった1年目の客は、3組だけだった。話題づくりに、横田さんは木の上に家を造ることを提案した。町は「それは面白い、けれどお金はないよ。とりあえず君のお金で建ててくれ」という返事だった。素直な横田さんは、なけなしの貯金をはたいて、プロの大工さんは頼まず、仲間に手伝ってもらいながら自力でツリーハウスを建てた。それが、本誌が泊まったツリーハウスである。

「建ててから分かったんですが、いろいろな許可が要るらしいです。でも、基礎がない家なので、建築基準法の対象になる建築物にはならないらしいんです。できれば、あと4〜5軒建てて、白糠町の目玉にしたいと思っています」

北海道には、横田さんのように無邪気で飄々としていて、どこかとぼけた感じの人物がいる。道外では、とても受け入れてもらえない独特の人生観の持ち主が、おおらかに生きていける。

キャンプ場の管理人といっても、収入は微々たるものだ。だから生活は、アウトドアガイドとの二本立てである。

「僕にアウトドアガイドの仕事が入った時は、管理人の仕事は休んでもいいという約束なんです。一人のお客さんのガイドを1日やれば、1万円から1万5000円ぐらいなります。知床半島を3泊4日で一周する時は、40万、50万のまとまったガイド料が入るということもあります」

知床半島にはかなり詳しいというけれど、世界遺産に登録された知床半島の岬のほうまで回るのは、問題があるのではないのだろうか。

「違法というわけじゃないんです。自粛を要請されているということです。でも、世界遺産登録前から、知床を回っている僕にしたら、自然保存のためにわれわれの入山を禁止するよりも、やらなければいけないことがいっぱいあると思いますよ。観光客が増えて、ゴミが増えているように報道されていますが、実際は、地元の漁師さんたちのモラルが問題なんですよ。カヌーで行く、アウトドアの人たちはゴミは絶対捨てません。後始末はきちんとしていると思います」

横田さんは、どこの事務所にも所属しないフリーのガイドである。それでも個人的に彼を頼ってくるお客さんは後を絶たない。もちろん、彼のガイド能力、気象を読む力、危険回避のノウハウなどさまざまな技が信用されているのだろうけれど、人生を必要以上に深刻に考えない横田さんの性格を慕ってくる人も多いようだ。

■横田宜伯さんの連絡先 
〒088-0343北海道白糠郡白糠町上茶路西1線67番地1 
TEL:01547・2・7122 
mail: north@isis.ocn.ne.jp


●グライダーで町おこしを図る、滝川市の元自衛官・池田亨さん

 自治体が主導権を握って進める事業の、成功の確率は低い。おそらく赤字で悩んでいる第三セクターなどは、命懸けで事業に取り組む人材を見いだせぬままに、何となくスタートしてしまったからではないか。滝川市が、グライダーを核にしたまちづくりを企画したとき、陸上自衛隊のパイロット・池田亨さんをスカウトしたのは正解だった。

「北海道の行政マンは補助金の意味を誤解しているんです。補助金はロケットを飛ばす際のブースターであって、燃料ではないんです。それを燃料と思ってつぎ込むから、墜落するんです。ブースターというのは、ロケットを打ち上げる時の初期加速エンジンです。だから、補助金も事業立ち上げ時にはつぎ込んでも、軌道に乗らない事業はさっと見切りをつけて断ち切るべきなのですが、ずるずると続けるものだから赤字が膨らむ。結局、北海道につぎ込まれた補助金は、ほいと(こじき)根性を助長するものになってしまったんです」と、独特の比喩で、かなり厳しい持論を展開するのは、社団法人滝川スカイスポーツ振興協会の常務理事で、チーフフライトインストラクターの池田亨さん。スカウトされた時は帯広の第5飛行隊、戦闘ヘリコプターAH-1Sの飛行隊長だった。

池田さんが自信満々に胸を張れるのは、自らが責任者として采配を振るうこの社団法人が、どこからも補助を受けないで、自前で運営できているからである。

全国でも珍しい、グライダーでのまちおこしは、どんな経緯でできたのだろう。

「私をスカウトした当時の吉岡清栄市長がグライダーを中心にしたまちおこしを考えていたんです。今も語り継がれる辣腕の首長だったのですが、聞くところによれば、石狩川が氾濫してまちに被害が出た時に、市長は飛行機で空から視察したのですが、操縦したのが、私のかつての上官でした。市長は、こういう飛行機が離発着できる場所が欲しいもんだと漏らしたらしいんです。それで、私の上官が、グライダーの滑走場を造ることはそんなに難しいことじゃないと、相談に乗ったのがきっかけだったらしいんです」

 池田さんは平成2年に、特別国家公務員から地方公務員になった。役場の一角に机を置いて、地方自治体がスカイスポーツをテーマにどんな事業ができるか研究した。

「何でもそうですが、ハードは誰でもできるんです。要は、運営の方法、どんなプログラムを作って、どうやって収益を図るかが肝心なんです。私は、当初からこの事業は成功すると思っていました。グライダー人口は、たぶん全国でも4000人から5000人ぐらいのものだと思いますが、趣味というのは奥が深い。このグライダーの魅力にはまり込んだ人は決してやめられるものではありません。私自身、大学時代にライセンスを取得してから、毎週のように飛んでいます。自衛隊にいた当時は、訓練のために毎日飛んでいるのですが、それでも週末は趣味としてグライダーに乗っていましたよ」

 このクラブは会員制で、現在200人の会員がいる。全くの素人が、単独で飛べるようになるまで、どのぐらいの時間と費用がかかるものだろうか。

「車の運転と同じなんです。毎日、続けて練習する人と、1カ月に1回程度の間隔で練習する人では、上達する力に差が出ます。今までで最短の人は、5月の連休に、ここを訪れて、8月には単独飛行ができるようになりました。費用は、大体70万円が目安です。しかし、車にペーパードライバーがいるように、グライダーもライセンスを取ったといっても、それが終わりではないんです。それからが始まりなんです」

 池田さんによれば、グライダー事業の成功の要因の一つは、客単価の高さにあるということだった。グライダーは、やはり誰でも気軽に挑戦できるという趣味ではない。ある程度、所得が高い人たちが参加してくるという。

 ちなみにグライダーは、安いものでは400万円ぐらい、高いものは1700万円ぐらい。会員の所有するグライダーは、スカイスポーツの格納庫で預かっている。

「グライダーぐらい安全なものはありません。99.99%安全です。エンジンのような機械類がないから、トラブルの発生の余地がない。事故があるとすればパイロットの操縦ミスですが、それだって、操縦桿を離せば自然に機体が水平になるようにできているんです。

 グライダーというのはツルのような渡り鳥と同じで、上昇気流に乗って飛ぶんです。ですから、いかに上昇気流をつかむかがパイロットの腕ということになります。子どものころ、大空に夢をはせない子どもはいないでしょう。ここでは、その夢を実現できるんです。会員にならなくても、1回6500円で体験飛行ができます。たまには、ちまちました下界を、空から眺めてみませんか。気宇壮大になることを請け合いますよ」

 池田さんは今年の3月31日、鹿児島県の枕崎市から離陸、滝川まで日本縦断2100?のグライダーの旅を成功させた。当初は4回だけ着陸の予定だったが天候に恵まれなかったために、広島西空港、飛騨高山農道空港、長野滑空場、福島空港、花巻空港、青森空港を経由して、滝川市に4月23日に着陸した。これが全国的な話題となったために、滝川市のスカイスポーツの施設の宣伝にも役立って、会員の拡大につながった。

滝川市はグライダーの滑空場施設という独創的なプランでまちづくりに挑戦したが、何より、この事業を任せるのにふさわしい人物の発見が成功をもたらしたといえるのではないか。

■池田亨さんの連絡先 (社)滝川スカイスポーツ振興協会

〒北海道滝川市中島町139―4  0125・24・3255  FAX0125・23・3777

mail: sata@rapid.ocn.ne.jp

●ジンギスカン丼で町おこし、『焼き肉のふく鳥』の柿崎敦彦さん。 

 

  喜多方や旭川のラーメン、宇都宮のギョーザ、高松のさぬきうどんなど、名物の食べ物はまちおこしの強力な目玉になる。これらの町に続けとばかり、各地ではそれぞれ地元の食材を生かして新しい名物の開発に挑戦しているが、今のところ天下に名前を轟かしめるほどの名物は登場していない。

 ここに、ひょっとすればひょっとするかもしれない有力な料理が現れた。滝川市のジン丼、ジンギスカン丼を略してジン丼。

北海道のジンギスカンは、生肉派とタレ漬け込み派の2派に分かれる。

「札幌はほとんど生肉派で、焼いた肉をタレにつけて食べる方式ですが、滝川ではすべて最初から肉はタレに漬け込んであります。そのまま食べられるから面倒がなくていいですよ。店独自の自慢のタレに漬けてあるのが売り物になっているんです」と、焼き鳥店と間違ってしまうかもしれない店名「ふく鳥」の店主、柿崎敦彦さん(59歳)。

滝川市にはかつて畜産試験場があったことと、食肉加工、販売大手の(株)松尾の本店があるので、独特のジンギスカンが発展していったらしい。

ジン丼で滝川のまちおこしをしようと提案したのは商工会青年部の駅前行動隊。

この呼び掛けに飲食店がすぐさま反応して、今年3月、キャンペーンを展開した。

醤油とみそをミックスしたタレに山菜を添えた“仔羊の五感丼”、韓国焼き肉風に石鍋で出す“石焼きジン玉丼”、八丁みそと白みそをブレンドした甘辛タレの中華風“みそジンギスカン丼”、イタリアの野菜料理カボナータと温泉たまごをトッピングした“イタリアンじんどん”、やわらかく煮込んだラム肉に長イモをかけた“ラム肉とろとろ丼”など、約23店が、それぞれ独特のレシピでジン丼を開発した。

柿崎さんが、“元祖”という名誉ある称号を獲得できたのは、最も早くジン丼を開発して、町内のイベントなどで振る舞ったからだった。

「羊は臭みがあるとか、脂っぽくてくどいというような先入観を持っている人がいるんですが、そんなことはないんですよ。料理の仕方で、洋風にも和食にもなります。うちで開発したジン丼は、やはりタレが決め手です。和風だしにしょうゆで味付けしたあっさり味が特長です。野菜はモヤシとニラです。他店はタマネギを使っているところが多いのですが、当店はあえて使っていません」

ジン丼を提供している店の前には「たきかわ じん丼」ののぼりが立てられている。

この丼には、三つの掟がある。「其の壱 独自の味付けをした羊肉を使用するべし 其の弐 北海道のお米を使用するべし 其の参 器は“どんぶり”を使用するべし」。これらの条件を守りさえすれば、あとはどんな工夫を凝らしても構わない。

北海道の食通たちは、この丼の食べ歩きが楽しみとなって、ちょつとしたブームになっている。

参考までに、「ふく鳥」さんが開発した“元祖!ジン丼”を試食した。ごはんの上に炒めたモヤシとニラが乗っており、その上に秘伝のタレに一晩漬け込んだラム肉がある。羊の肉は、生後1年以内のラム肉を使用しているというだけあって、やわらかく、臭みは全くく感じられない。牛丼の復活がもたもたしたいる今、ジン丼は地域限定料理としても有望かもしれない。

■柿崎敦彦さんの連絡先 「ふく鳥」

〒073-0031 北海道滝川市栄町3-7-15 0125・23・2815

キャプション

1.飯島さんの紙ヒコーキは微妙な作りなので、大量生産できないのが特徴だ。

2.オオタカのような大きな紙ヒコーキは、棒に糸を結んで飛ばす。ラジコンならぬ糸コンと称している。

3.「一応、役場職員なので目立ってはまずい」と、横顔だけになった池村美博さん。

4.羊を通して“関係性の復活”」を提唱する武藤浩史さん。

5.青少年旅行村で、バーベキューパーティーを開いてくれた“きになる会”の皆さん。

6.“チーズを白糠町の新しい食文化として定着させたい”と語る井ノ口和良さん。

7.チーズ工房「酪恵舎」では、作りたての新鮮なチーズを買うことができる。

8.忘れていた冒険心をむくむくとよみがえらせるツリーハウス。

9. “計算しながら生きる人生は嫌い”と言うアウトドアガイドの横田宜伯さん。

10.枕崎から滝川までの日本縦断グライダーの旅を成功させた池田亨さん。

11.ジン丼で観光客を呼びたいという柿崎敦彦さん。

12.秘伝のタレが人気の「ふく鳥」の「元祖!ジン丼」780円。

・5と12がメールです。あとは紙焼き。

 


日本のグリーン・ツーリズムに欠けているものは何か

田舎に住む人々の誇りがグリーン・ツーリズムを育てる

大島順子

有限会社アールシーエス研究所 取締役

HP「ブルゴーニュだより」: http://www.bourgognissimo.com/

EU(ヨーロッパ連合)ではさまざまな分野で統一規格を制定しようとしているのだが、農村民宿に関しては、グリーン・ツーリズムが最も発展しているフランスの基準を基に定められた。フランスのやり方を、伝統や文化が異なる日本に当てはめるべきではないが、フランスという国が歩んできた道を検証してみると、日本のグリーン・ツーリズムに欠けているものが見えてくるかもしれない。

1. 最も難しい民宿からスタートした日本

日本の体験民宿は至れり尽くせりのサービスを提供する活動だ。各地で農村民宿にお世話になったが、どこでも温かい応対を受けて感動した。自殺したいくらい落ち込んだ時でも、1週間も滞在させてもらえば元気になって帰れるだろうと思った。しかし、これほど能力と時間を必要とする民宿経営ができる人の数には、限界があるのではないだろうか。

世界で最も早くバカンス法を制定させたフランスでは、第二次世界大戦が終戦を迎えると、誰もが長期休暇を楽しめるように、農家が民宿を経営するように奨励された。グリーン・ツーリズム振興にイニシアチブをとったのが農水省であった点では日本と同じなのだが、大きな相違点がある。農家に奨励したのは、廃屋を利用した貸別荘型の民宿だった。農家に副収入を得させると同時に、農村の景観を美しくすることを狙ったのだ。推奨したのは自炊宿泊施設を提供するだけなので、接客には素人の農家も着手しやすかった。この貸別荘型民宿(ジット)が加盟するジット・ド・フランス連盟が創設され、徐々に民宿タイプを増やしていった。しかし、B&B民宿を誕生させるまでには十数年もかけている。

今日のフランスには、農村住民が提供するさまざまなタイプの宿泊施設が存在する。これはツーリストにとっては好みで選べる魅力となるのだが、逆に経営者にとっても、自分の都合に合った活動ができるという利点にもなっている。時間をかけないなら、貸別荘型民宿や小規模キャンプ場。収入を重視するなら、農家レストラン、夕食も提供する大型民宿やB&B民宿にするなどといった選択肢だ。

民宿の中では最も利用客との接触が多いB&B民宿でも、経営者はプライベートな空間や時間を確保しているので負担が少ない。また、農家が体験をさせる活動は、「教育ファーム」として民宿経営とは分離されている。これは予約制にできるので農作業と両立しやすく、子どもを中心とした団体を扱うので働く時間に見合った報酬を得ることもできる。

2. 農村住民すべてが参加する農村ツーリズムへ

フランスのグリーン・ツーリズムは、リゾート開発とは明確に区別されている。住民たちが率先して行い、住みやすい農村にするためのツーリズムがグリーン・ツーリズムだ。大きな収入を得ることはできない事業であるために、行政は福祉的な機能も評価して支援している。さらに、さまざまな補助金など観光国ならではの充実した体制もある。こうした支えがないことが、日本のグリーン・ツーリズムにはネックだと思う。

さらに、日本のグリーン・ツーリズムは拡大しにくいだろうと思える点がある。農家の活動に大きな負担を与えているために、非常に範囲が狭いツーリズムになっていることだ。フランスでは、農家が行う活動はアグリ・ツーリズムと呼ばれ、グリーン・ツーリズムの一部にすぎない。フランスでの発展を可能にしたのは、非農家も含めた農村住民たち、そして自治体も参加する広い意味での農村ツーリズムとして扱われたからだ。日本でも、非農家の住民たち、さらに旅館や、既存の民宿やペンションなども、グリーン・ツーリズムの中に組み入れられるべきではないだろうか。

フランスのグリーン・ツーリズムは簡単な活動からスタートして経験を積みながら、底辺から持ち上げて活動を拡大させていった。最大の農村民宿連盟ジット・ド・フランスでさえも、創設当初から政府は補助金を与えていない。それでもNPOとして運営でき、加盟民宿数が5万を超えるネットワークに成長することができた。グリーン・ツーリズムは農村住民が主導権を持って発展できる活動なのだ。


3. 美しい農村を守り、農村住民が住みやすい環境をつくるツーリズム

フランスのグリーン・ツーリズムの特徴の一つに、農村の郷土資産を保存して景観を美しくするという目的がある。廃屋となる危機にさらされた建築物を救いたいと思うフランス人の情熱には強いものがあり、工事費を得るために民宿を経営する例が多い。逆に、民宿の創設や改築に補助金が与えられる場合も、既存の住居を改修するときにのみ与えることを条件にしている場合が多い。昔の民家を保存することを、農村の美化活動として奨励しているのである。

自治体が観光宿泊施設を創設する場合も、ホテルのようなコンクリート建築を造ったりはせず、今では使われなくなった建物を修復して宿泊施設として利用している。そのために、積極的にグリーン・ツーリズムを行う農村でも、景観が乱れることはない。むしろ、特別な魅力もない農村を美しくしているのである。

また、グリーン・ツーリズムは農村住民の生活を豊かにする事業だという考え方も、フランスでは重要な位置を占めている。公営キャンプ場を設置する自治体が多いのだが、その収益によってキャンプ場付属のプールやテニスコートを造れば、地元住民も利用できるからだ。自治体による花咲かせによる美化運動も盛んなのだが、これはツーリストを喜ばせるだけではなく、住民たちにも居住地域が美しいという誇りを持たせることになる。

住民たちが仲良くツーリズム活動している小さな町に行ったとき、町長に将来の計画を尋ねると、これ以上拡大するつもりはないと返事された。住民たちが道でツーリストに会ったとき、笑顔で「こんにちは」とあいさつしたくなる気分でいられる程度の人々が来るのが理想なのだと言う。

4. 農村に誇りがある土地にグリーン・ツーリズムは育つ

フランス人が農村を愛する歴史は長い。田園や森を憩いの場として楽しめたのは貴族だけだったのだが、19世紀になると、大都市住民が近郊の田舎に出掛けて休日を過ごすブームが生まれた。それは、パリ近郊も都市化してしまう戦後間もなくまで続き、それと入れ替わって登場したのがグリーン・ツーリズムだった。

フランスの田舎に住む人々の誇りは、非常に強い。都会のまねをするなどはもってのほかだ。農村は、都市とは別世界のような魅力を残している。田舎は風景が美しく、居住環境も良く、食べ物もおいしい。仕事のために町に住まなければならないなら、せめて休日や休暇のときには農村に行くのは、フランス人たちにとっては当然なことだ。フランスのグリーン・ツーリズムは、農村を憩いの場として求める国民の願いをかなえるために自然発生的に生まれ、発展しただけのことである。農村に来てほしいなどという呼び込みなどは必要なかった。

日本でも、江戸っ子たちは郊外に出掛けて花見などを楽しんでいる。明治維新や敗戦を経て、経済発展ばかりを目指すような歴史を歩まないでいたら、日本でも農村にあこがれる感情が自然に育っただろう。物質的な豊かさを求めることをやめ、心の豊かさが最高の幸せだと考えられる時が来たら、農村での憩いが求められるはずだ。しかし、その時に田舎本来の美しさや魅力がなくなっていたら、グリーン・ツーリズムが大きく花咲くことはあり得ないだろう。

農村が期待するほどにグリーンツーリズムは都市に浸透していない

                                 江藤訓重
熊本県小国町役場行政経営局局長
九州ツーリズム大学学長代理
前(財)学びやの里事務局長

 私の住む熊本県小国町は、人口9千人弱の山間部の農村である。ここで「九州ツーリズム大学」という取り組みを始めて、今年で10年目。地元町民、熊本市、福岡市、その他九州全域からも受講生が集まり、これまで約1000人が受講した。

8年目の一昨年、都市からの受講生を増やそう、都市の人にグリーンツーリズムへの理解を深めてもらおうと、福岡市でツーリズム大学の臨時講座を実施した。「グリーンツーリズム」をテーマに参加者を募集したが、50人の定員に対し、約半数しか集まらなかった。懲りずに翌年、再び福岡市で講座を計画した。地元福岡市に本社のある某新聞社に相談したところ、農業やグリーンツーリズムの分野に明るい担当者に「グリーンツーリズムでは人は集まりませんよ」と言われた。ショックだった。

その時は、テーマを「食」に絞った。すると、申し込みは定員を軽く超えた。断るのが大変なほどだった。

農村側が期待するほど、都市側は「グリーンツーリズム」というキーワードでは関心を寄せていないようだ。都市側へアプローチする時には、グリーンツーリズムという言葉を使わず、かみ砕いて他の言葉に置き換えたほうがいいように思う。

 さて。グリーンツーリズムであるが、イコール農家民泊というイメージが強い。果たしてそれだけでいいのだろうか。グリーンツーリズムというものが、あまりに農業、農家だけにこだわりすぎていないか。農村に住んでいるのは農家だけではない。公務員、サラリーマン、商家など、むしろ非農家のほうが多いくらいである。グリーンツーリズムは農家のツーリズムでなく、“農村ツーリズム”でなければ、広がりがない。

 小国町には「商家民泊」を行っている商家がある。時計店とギャラリーを営む、商店街の中の民家である。古い蔵があり、そこを改装して客室にしている。B&Bは、“いかにも農村”という環境の中だけでなく、商店街にもいい。宿の主の案内で、宿泊客が周辺の飲食店や居酒屋、商店ともつながり、交流に広がりが出ている。交流の楽しさが、宿泊先だけでなく、周りへも波及している。グリーンツーリズムが農家だけの取り組みで、また都市との交流があっても、それが宿泊先だけにとどまっていては、グリーンツーリズムによる農村の活性化は難しい。交流の楽しさや恵みを、周辺に伝えていくことが重要だ。

もう一つ。民泊も、質が問われている。どんな宿でも客が来るわけではない。故山崎光博先生(元明治大学教授)の言葉に「民泊は厚化粧ではダメ、薄化粧で」というのがある。投資し過ぎるな、無理をするな、という戒めの言葉だが、これに加えて「スッピンでもダメ」と言いたい。宿をやるにも向き、不向きもある。始める前に勉強もしてほしい。自分も客になってどこかの民泊に泊まってみて、客のニーズを知ってから始めても遅くはないと思う。


グリーン・ツーリズムには、福祉のこころが必要です。

            伊東和美(長野県大鹿村・山村体験館“たかやす”)

平成4年に民泊を始めたころと比べれば、お客さんの数は増えていると思いますが、特別忙しくなったとは感じていません。お客さんが増えたのは、以前、牛を飼っていた畜舎を取り払って、テントを張れるようにしたものですから、ガールスカウトなど子どもたちが大勢で泊まることができるようになったからです。

こういう場合は、引率のリーダーのもとで、子どもたちがすべて準備して、自炊して、きれいに片付けて帰っていきますから、私は何もしなくてもいいんです。

基本的に、私は泊まる人のために特別に何かを用意したりすることはありません。

お客さんのほうで、勝手にいろいろ考えて、大鹿村での楽しみを発見してくれます。散歩したり、釣りをしたり、スケッチをしたり、ジャムを作ったりしているようです。

グリーン・ツーリズムは、お客さんの好みに農家側がいろいろ合わせるのではなく、お客さんの自主性に任せるのがいいと思います。

うちの場合は、始めたころからリピーターというのでしょうか、何度も訪れる方が多いので、気心の知れた人ばかりです。

民泊を始めるに当たって私は投資したわけではありませんので、1カ月に何人泊まってもらわなければ採算が合わないなんていう計算はしたことがありません。私自身が、東京に出掛けたり、疲れたりしたときは、さっさと休んでしまいます。

“たかやす”のやり方を学んで、村内には何軒かのグリーン・ツーリズムの宿が生まれていますが、それぞれの特長を生かして運営しています。

私は、グリーン・ツーリズムはビジネスというよりも、福祉のこころがないとやっていけないと思っています。お金じゃないんですね。ですから、お客さんが多いとか少ないとか考えることはないんです。

大鹿村には鹿塩温泉という古くからの温泉があるのですが、私は、お客さんで温泉に入りたい人は、ここに案内することにしています。ですから、温泉旅館と民泊もいい関係にあるんです。

グリーン・ツーリズムに携わっていちばん楽しいのは、人と人とのつながりができることでしょうか。私のところには、テーブルやいすやいろいろなキャンプ道具がそろっているのですが、ほとんどが泊まったお客さんからのもらい物です。

「こんなものがあるんだけど要りませんか?」と言ってくれて、送ってくれるんです。ですから、お金を使わずに道具類はすべてそろってしまいました。

お客さんと親しくなるものですから、泊まった方がいろいろ特産品などを送ってくれます。それをまた、その時に泊まっていらっしゃるお客さんにもお裾分けしますから、山の中の民泊だけど、全国のものが食べられると喜ばれています。

グリーン・ツーリズムの宿はこれから増えると思いますが、一方で淘汰されるところも出てくるでしょうね。自分の考えがなく、人まねで始めたり、利益主義に走るところは長続きしないと思います。また、周囲の農家や商店、本職の旅館業の人たちと協調する気持ちのない人もやっていけないんじゃないかしら。

私は、これからも無理にお客さんを増やそうとはしませんし、宣伝もしません。自然体でやっていこうと思います。(談)

都市と農村との共生・対流社会が築かれない限り、日本の農山漁村は確実に衰退していく

酒井義広(岐阜県庁職員 グリーン・ツーリズムインストラクター)

○グリーン・ツーリズムにかかわって

   自分の住む地域は岐阜県の奥美濃と呼ばれる農山村で、仕事は農業関係の普及員や、農業行政の公務員を三十年以上やっております。

   自ら兼業農家として田や畑を耕し、地域づくりに目覚めた40代の初め(『かがり火』の支局長や逆手塾の会員になった)ころから「ふれあい農園」活動を仲間たちと始めました。年4回、町の親子(120人ほど)と米や野菜づくり、自然・祭り体験等の交流活動を続けています。

 仕事柄、全国の先進地の状況も知ることができ、また県内の体験交流を実践していて、農家民宿やNPO、民間団体等には多くの知人や友人がいます。そしてグリーン・ツーリズムを推進する立場(仕事上)から、インストラクターの資格も取りました。

 

○グリーン・ツーリズムを語るとき

 グリーン・ツーリズムはいつもヨーロッパと比較されますが、その議論は、正直どうでもいいと思っています。基本的に「バカンス」や「ホリデー」と言われる長期休暇が法的、制度、慣習等で定着している国と、二泊三日がやっとのわが国の現状では比べようがありません。

 ヨーロッパは産業革命以来、都市と農村の住民は基本的に分かれており、所得格差についても、直接補償的な補助金で農業や農村をしっかり守り、食料・生命産業(地域)を原則的に守っています(国民の圧倒的合意の上なのでしょうか)。

 その点、わが国は食料自給率40%と、食べ物を輸入に頼って、お金で生命産業ならびに環境を買えると思っている国民が多過ぎるのではないでしょうか。

 長期滞在は海外旅行で、国内旅行は子どもや若者に人気のテーマパークが主流では、いつまでたってもグリーン・ツーリズムは主流になれないと思います(都市住民のグリーン・ツーリズム認知度は14%以下だとか)。

○グリーン・ツーリズムの現状

  「都市住民の田舎でのゆとりある滞在型余暇活動の促進」という名目で、国の各省庁が数多くのハード事業を推進してきました。私も地方職員として携わってきましたが、整備した多くの拠点施設は、市町村合併と交付税削減の財政難の中で、維持管理に四苦八苦しています。またインストラクター業は田舎のフリーター的存在で、職業として生計を立てていけるには、まだまだ時間がかかりそうです。

  私たちの地域では、交流人口の最大はスキー等のレジャー的な体験観光型が多く、次に学童の自然学習、農業体験、生涯学習などの体験学習型が続き、近年は環境保全、援農活動などのボランティア型も現れています。しかし受け皿となっている各種団体は、主に体験プログラムづくりに追われてきたような気がします。まさに観光エージェントの企画合戦みたいなもので、とても本来の「ゆとりある滞在型余暇活動」とは言えません。

○これからのグリーン・ツーリズム(農村型交流産業の発展)

  食の安全神話が崩れて国民の関心が食に集まり、スローフード、ロハスなライフスタイルブームが起きているなかで「食育=食農教育」的な体験交流が人気を集めそうです。私の知っている民宿のおかみさんたちは、現在この分野で活動の幅を広げています。

 また、都会の生協組合員と連携している地元の会社では、学童を対象にした自然・冒険体験プログラムを実施しており、あるNPO法人は学校など教育機関と連携して、環境教育の体験実習で事業を軌道に乗せています。

 しかしこれからは、お金と暇を持ち合わせた団塊の世代の自然・景観・文化との出会い旅や、農林業体験が期待されます。いずれにせよ、都市住民のニーズにどう対応できるかが、田舎での受け皿側の力量の見せどころです。

   行政主導で、農林業体験交流施設、農畜産物活用地域食材供給施設、農産物直売所、 クラインガルテン、コテージ、オートキャンプ場等の交流拠点施設を各地域で整備してきましたが、宝の持ち腐れにするかしないかは、その地域の情熱を持ち合わせたリーダー、キーパーソン的な人材の有無が鍵となってきます。そしていかに地域連携を深めて、地域ブランドにできるかが課題となります。 やっぱり、地域づくり=人づくり=自分づくりだと思います。

○グリーン・ツーリズムへの期待

   最近の中山間地域では過疎・高齢化が進み、米の生産調整(4割)が実施されるなか、耕作放棄地が年々増加しています。すなわち、米作りの主体である昭和一けた生まれのリタイアが本格的に始まってきたからです。

 私は片道65km以上の通勤を長年していますが、車窓から見る農村風景は基盤整備された田んぼが、真っ白な荒地野菊で覆われてきています。そして獣害が野菜作りも含めて耕作意欲を削ぎ、独居老人宅、空き家の増大とともに、着実に限界集落に向かっています。

   最近、テレビや雑誌でほのぼのとした「田舎ぐらし」が紹介されていますが、田舎暮らしを目指す人が爆発的に増えてくれないかなーと願っています。都市と農村との共生・対流社会が築かれない限り、日本の多くの農山漁村は確実に衰退し、消滅していくことでしょう。

 『かがり火』が以前提唱していた「第二住所制」なるものも、真剣に国で制度化したらと思うのは自分だけなのでしょうか。

   グリーン・ツーリズムの最終目標は、都市住民の田舎での定住、ついのすみかづくりだと思っています。都会で必要とされなくなった人たちよ、地域に頼られ、自然と人とつながり合って生き、確実に自分の居場所が存在する田舎に住んで、一緒に日本の故郷を楽しみながら守りませんか。次代を担う子どもたちのために。

●第二住所制(2000年90号掲載)「人口30万人以上の都市に住む成人は、現住所のほかに第二住所を登録することを義務付けられる。第二住所は過疎に指定されている町村から選択することになる。第二住所には第二住民税を納付しなければならないが、税の代わりに田植えや刈り入れ、間伐材の伐採などの労働力の提供でも認められるというもの」