チコリ”の国産化に賭けた中田智洋社長の情熱

“会社の元気”は“地元の元気” 岐阜県中津川市(株)サラダコスモ

国産のチコリを日本の食卓にのせたい

 チコリとはどんな野菜かを知っている日本人は1%にも満たないらしい。最近はイタリアンレストランなどでは、ルッコラやエンダイブ、パプリカなどと並んで必要欠くべからざる食材になっているが、まだまだ日本ではなじみが薄い。ヨーロッパ原産のキク科の野菜で、これまではほとんど輸入に頼ってきた。それを国産化したいというのが、サラダコスモの中田智洋社長の長年の夢だった。

「日本人はモヤシを1年間に一人当たり1.8?食べています。野菜炒めやラーメンなどにも入っていますから、最もポピュラーな野菜ですね。フランスやオランダやベルギー、ドイツなどでは、チコリは年平均一人5〜6?食べるといわれています。日本のモヤシやキャベツ、レタス以上に、日常的な野菜なんです。

私は、このチコリを日本の食卓でも気軽に食べられるものにしたいんです」

 中田社長は、先代がラムネで創業した会社をモヤシで飛躍させ、何度かの経営危機を乗り越えて、発芽野菜を導入して大躍進したことはすでに本誌104号で紹介した。そして今度は、チコリの国産化に成功して、複合施設の「ちこり村」をオープンさせたのである。

チコリの栽培を簡単に説明すると、種を5月末ごろから6月初旬にかけて、畑にまくと、数日後にかわいい双葉を出す。その双葉が大きくなり、地中に根(チコリ芋)を伸ばした約5カ月後の11月ころに、土から掘り出して収穫する。この段階では、葉はまだ食用にはならない。その葉っぱを切り落として、根だけを冷凍保存する。チコリは四季を感じる作物なので、冷凍して冬を擬似体験させることで、年間を通しての生産が可能になるわけである。そして、早いものは12日後、いちばん遅いものは1年後に解凍して冷暗所の栽培室に移す。栽培室で液肥を与えると、8日目ごろから根の上部に食用になる葉っぱが発芽する。これがチコリである。発芽して21日には葉が15?くらいに成長して、20枚ほどの葉がくるっと巻いて、製品としてのチコリが出来上がる。

成長したチコリを収穫せずに畑にそのままにしておくと、葉が茎になり、やがて花が咲いて、莢(さや)ができ、種ができる。そうすれば自家採種ができるのだが、コストと時間が掛かり過ぎるので、種は輸入している。

ちなみに、チコリには、血糖値の上昇を抑えるイヌリンが含まれており、他にカリウム、リン、カルシウムやビタミンB1・B2、ビタミンCなどが含まれていて、100gで16キロカロリーというヘルシーな野菜である。

舌というものは保守的なものである。まったく未知なる味についてはこわごわとしてなかなか近づかないものだ。コカ・コーラが日本に上陸した時がそうだった。もっと昔のことをいえば、牛乳だって誰も口にしなかったのである。しかし中田社長は、チコリは日本人にとって必ず定番の食材になることを確信しているのだった。

中田社長のアイデアのすごいところは、ヨーロッパでは家畜の飼料にしかならなかった根(チコリ芋)の活用だった。根を発酵させてチコリ焼酎「ちこちこ」を造った。もちろん日本では初めて、いや世界でも初めての試みである。これによってチコリは、葉っぱから根まで捨てるところのない野菜になった。

企業の発展と地元の繁栄は車の両輪という信念

「ちこり村」は、高速道路の中央道の中津川ICの真ん前である。大型観光バスにも対応する大型駐車場もつくった。訪れる客が、チコリの出来上がるまでを観察し、焼酎を試飲し、ついでに食事もできる「バーバーズダイニング」もつくった。このレストランでは、地元の農家の主婦たちが地元の食材を使って作る、ふるさとの料理を味わえる。親切なことに、その隣には栗きんとんで有名な中津川の和菓子屋「新杵堂」が出店した。

つまり、中田さんは「ちこり村」を、チコリの栽培工場と焼酎「ちこちこ」の蒸溜蔵、中津川の農産物と名産品を味わえる教育観光複合型施設として設計したのだった。

「私は、株式会社の社長ですから、利益を上げなければいけないのは当然ではありますが、地元にも元気になってもらいたいと考えているのです。ですから、この『ちこり村』を通して、地元の元気、農業の元気、そして、農業に携わっている高齢者の方々の元気の、三つの元気を追求していきたいと思っているんです」

 この施設には7億円を投じた。オープニングの当日、来賓としてオランダからスプラウト氏夫妻が来日していた。中田社長は、スプラウト氏が経営する会社からチコリを輸入し、チコリの栽培方法を学んだ。氏の協力があったからこそ国産化ができた。それが、今度からは輸入をやめて、自分のところで生産することになったわけだから、オランダ人にとっては本当は面白い話ではないはずだ。しかし、スプラウト氏はあいさつの中で、中田社長の心意気に感じて友情をはぐくんできたこと、これからも全面的に協力することを約束していた。

志を共有する者同士の、海を越えての熱い連帯を感じた。

お金がすべてではないと考える経営者

中田智洋社長はアメリカ流の経営を排除し、伝統的な日本の経営を大切にしている。アメリカ流の考え方では、株式会社は株主のものというのが定説で、経営者は株主がいちばん恩恵を得られるように経営しなければならない。社長は単に株主から経営を委託されているにすぎない、という考え方が主流になっている。社員の幸せや地域社会への貢献などは後回しにされる。それどころか、企業の収益が悪化すれば、簡単にリストラを行う。

しかし、中田智洋社長は、あのO-157のカイワレ大根騒動の時、売上が8割ダウンしたにもかかわらず、一人の従業員もリストラしなかった。経営と労働は運命共同体であるという考え方は古いといわれるようになってしまったけれど、中田社長は信念を貫いた。

資本主義社会において会社が目指すところは、利益追求である。収益をいかに多く上げるかがすべてである。そこに道徳や倫理が介入する余地はない。せいぜい<法に触れないことに注意を払うだけである。額に汗して稼いだ1億円も、えげつない方法で稼いだ1億円も、1億円は1億円である。どうやって稼いだかによってお金の価値そのものは変わることはない。つまり、資本主義に倫理性は存在しない。

しかし、原理はそうであっても、現実の経済活動の中に何の倫理性もないのかといえば、そうではないようだ。『かがり火』が取材し、紹介してきた会社は、このサラダコスモの中田社長のように社会的使命は何かを考え、地域のことも考えながら仕事をしている。時には、資本主義の原理原則に反しても、社員の生活を守り、消費者にも納得してもらえる仕事をすることを願っている。経営者である以上、収益を上げることは絶対的な命題とは考えているけれど、それ以上に労働に対する誇りを大切にしている。

『かがり火』は、こういう会社や社長を取り上げることによって、少しでも人間らしい、暮らしやすい社会が構築されることを願っている。

中田智洋社長のような経営者が輩出する限り、地方再生の灯は消えることはないだろう。

宮本常一の講演録を発見『中国地方の文化と生活』

森 永壽 (島根県・中山間県境支局)

NPO法人「ひろしまね」の事務所で偶然、民俗学者・宮本常一(1907〜1981)が30年近く前に広島県三次市で行った講演録を発見した。内容は現在でも少しも古さを感じさせるものではなく、現代の地域づくりにも大きな教訓と示唆を与えてくれるものである。調べてみると未来社から刊行されている著作集にも収録されていない。関係者の一部の人の目にしか触れていない。これはもっと広く読まれるべきものだと思い、『かがり火』編集部に掲載を依頼した。

宮本常一は、「与えられている環境をどう自分らの手で開いていくかという努力の中に文化があるのです」と言っている。

昨今は“美しい国”というのが流行になっているが、地域が美しくなくて、国が美しくなるはずがない。われわれは、政治家や学者の言動にむやみに従うのではなく、自分たちの頭と体で地域を切り開いていかねばならない。  

宮本常一の言葉は『かがり火』の編集方針と、多くのところでオーバーラップしているようだ。なお、この講演録は、広島県統計協会および宮本常一氏のご令息である宮本千晴氏の了解を得て、森永壽が脚注を加え、『かがり火』編集部が表記の見直しを行って掲載したものである。

●講演録は今号と次号2回に分けて掲載します。

中国地方の文化と生活

武蔵野美術大学名誉教授・日本観光文化研究所長 宮本常一

と き 昭和53年10月17日開催の第29回広島県統計大会記念講演

ところ 三次市文化会館

江戸時代の人口

 三次[1]という所は、私度々やって来たことがございます。

 十日市町で一回と三次町の元の町で一回講演をしたことがあるんです。

 もう20年も前だったと思います。婦人会の講演だったと思います。ここに金井さんという旧家がございまして、そこの亡くなられた奥さんと親しくしておりまして、そういうことでここへ来たことがあるんです。

 私はここばかりでなくて広島県はいろいろの因縁がございまして県下をことごとくといっていいほど回る機会がございまして、ここにおいでの方々は島方面の方もおいでだろうし、あるいは平野地方の方もおいでだろうし、山間の方もおいでだろうと思います。そのほぼ全体をかなり詳しく見る機会を持っております。それで講演の題が「中国地方の文化と生活」とありますけれども、主として広島県が今日までどのような歩みを続けてきておるのか、現在の広島県の繁栄が何によっているのか、そういうことを反省しながら話をしてみたいと思います。

 広島県には、江戸時代の中頃から後になりますと、一般の民衆の、ここで民衆と申しますのは武士であるとか、坊さんであるとか、そういう人たちを除いた人たちと考えていただきたいと思います。いわば、それぞれ生産に携わっている、農業を行うとか、商業を行うとか、山仕事をするとか、そういう人たちを民衆と考えていただきたい。

 常民という言葉を使うことも学問の上では多いのですが、民衆という言葉の方がわかりやすいと思います。

 私はこの民衆の生活を長い間調べてきているわけですが、なぜ、民衆の生活を調べてきておるかと申しますと、日本には人口が1億1000万おりますけれども、明治維新当時日本の人口というのは、3500万だったのです。3500万の中で武士というのはどの位おったのだろうかというと、家族を含めて200万しかいなかったのです。それから町に住んでおった人たち、当時は三次も町でございました。広島も町でございました。そういう町に住んでおった人が大体300万、両方で500万人、後の3000万人は農民だったのです。

 皆さんが日本文化といっているものは、実は、200万人の武士の歴史と町人の一握りの300万人のうちの地方の町ではなくて、江戸とか大坂[2]とか京都とかそこらあたりに住んでいる人たち、人口にしますとせいぜい江戸が100万人おりましたし、大坂が40万人、京都が20万人、それらを合わせて160万人、後の140万人ほどが日本全国の町といわれる所に散らばっておったのですから、町の文化というのは今申し上げました三つが中心になる程度であって、とにかく一握りの人たちの文化が日本全体の文化だと、皆さん方は今日まで信じこんできたのではないかと思います。

 それと一般の民衆、すなわち3000万人いた人たちの文化はどうだったかというと、これを調べる人はほとんどいなかったのではないかと思います。

日本を本当に知るために

 我々は民衆の歴史を調べていると言っておりますけれども、必ずしもそうではない。よく外国の人たちが日本に来て、日本の文化は、わかりにくい、ということを言うんです。同時に日本の人たちも、日本の文化は外国の人にわかるものではないということを言っております。

 これは実は日本の知識階級の人たちが本当に日本の文化を理解していないと思います。私は特に最近外国人と接触する機会が多くなっておりますが、私自身外国人の質問について十分答えられるものを持っていない。それは私だけではない。しかしその人たちの知りたがっていることはよくわかります。

 私は英語がろくにできないのですが、外国の人たちと話をしてみますと、こちらが自信を持って話すことは実によく通ずるんです。向こうの人たちにも日本の文化がわかってもらえるのです。

 文学の話をしましても、芸能の話をしましても通ずるものがあるのです。通じないのはなぜかと申しますと実は、日本人が日本の文化をよくわかっていないということです。わかっていないのがわかったような顔をしてものを言うことが多いんです。どこに問題があるんだろうかというと、研究をしているという人たちが本当に研究をしていないのです。例を取りますと、日本の漆器は立派である、漆塗りは立派であるといろいろの書物に書いてありますが、それではその書物を書いている人が実際に漆塗りをする技術を持っているかというと、持っていない場合が多いのです。見ておるだけです。それを紹介したんでは外国の人にはわからない。こちらも十分わかっていない。だから突っ込んで聞かれると答えられない。その程度の文化の理解しかしていない。そこで具体的に疑問にこたえて説明をしますと、それはわかると言うんです。

 文化というのは本当に理解しようとするためには、我々自身が一緒に仕事をし体験しないといけない。

 今私の所へ、外国の人たちがいろいろなことでよくやって来てくれます。例えば先ほどの陶器のことで勉強したいといって来ました。その人たちがあっちこっちの陶器の窯場を見て、そこで作られたものだけを見て喜んでいるかというと、ただそれだけではないのです。

 外国から来て勉強しようという人たちは、窯場へ入って自分自身でろくろを使ってそして、一つの器を作ってみる。それを繰り返して自分で作れるようになるまでやって、それから陶器についての勉強を始めておるんです。

 日本の学者といわれる者がそういうことをやっているだろうかどうか。私の知る限りではそういう人たちはいたって少ないのであります。例えば、日本の竹細工はすばらしい、どうしても研究したいという人が日本に来ました。それで熊本県の球磨郡という所がありますが、そこの竹細工を造っておるお年寄りの所へ行かせたのです。両方とも全然言葉が通じないのです。そこに入れて「あなたは絶対ホテルから通うのはだめなんだ、ここのうちの弟子になるんだから、ここのうちのものを食べ、それから膝を組んで箸を使って食事をしなさい。そしてこのおじいさんの言うことをちゃんと守って、わかるまで聞くんですよ」ということで置いたのです。

半年過ぎまして、彼が東京へ戻って来て我々と話をするのに日本語が実にうまいんです。ただし竹細工以外のことはわからないんです。完全に言葉と技術を併せて身につけているんです。そして我々よりは、はるかに深いところで技術の神髄をつかんでいるんです。言葉がわからないから、その言葉をわかろうとする。技術を身につけようとするというと言葉で理解しなくてはいけない。それを丹念に繰り返していくうちに我々の気のつかないようなことまでそれをつかんでいっておるんです。そして、それによってわかったことは、竹細工というのは本気になって練習するならば半年で玄人になれる。それを私たちが教えてもらったんです。

そこで私の仲間の一人[3]が「それでは僕は竹細工をやって飯を食いたい。」というので、同じ人の所へ弟子入りをして現在茨城県の笠間[4]という所で竹細工をやって妻、子供を養いながら生活している。むろん文章の書ける人ですから、書物も書いておる。

いくらかでもかごを作ると、それをオートバイにつけて東京までやって来る。その途中で皆売れてしまう。そういう話をしておりました。行商をしておるんですけれども、行商は東京へ遊びに来る途中で行われてしまう。「それでよく売れるな。」と言ったら、「かごに“売り物”と字を書いて付けていると、呼びとめて買ってくれる人があるものだ。」というんです。僕の作ったものでも結構買ってくれる。そういう本当に大事な芯になるものを我々が身につけておってそれで外国の人たちとも話し合いをしておるのであるならば、外国の人たちに通じないものはないはずでございます。そうしますと、日本におけるいろいろの今日までの学者だとか評論家などが本当に、日本をどれほど理解しているだろうかということが問題になってくるんです。

そういうふうにして、考えてみますと3000万人の民衆が今日では、1億にふくれ上がってきておる。その神髄になるものを日本の支配者や学者はほんとに理解していたでしょうか。

私は民俗学という学問をやっていますが、民俗学という学問にしても、とんでもない間違いを犯しておるんです。例えば、ここらに正月ですと“とへとへ”という行事があると思います[5]。15日の晩に、一軒ずつ戸をたたいて回って餅をもらっていく、そういう習俗がこの山中にありますけれども、それだけを話として聞いていたのでは、その地方の人たちの日常生活がわかるかというとわからないのです。そういうものをどれほど集めてみたからといって、そこへ日本人の生活が浮き彫りになるかというとならないものなんです。

もっと大事なことは日常に人びとは何をしているのかを細かく聞きとめていかなければいけない。たとえば田植えをするというようなことにしましても自分自身が田植えをする経験をしなければ、本当はものがいえないはずだ、こう考えるのです。皆さん方はそういう体験を持っておられるのです。ですから皆さん方が書物を読むと、その中に書かれていることがこれはおかしいではないかということがたくさんあると思います。思ってもそのままにしておく。

おかしいと思うことが大変重要になるんですが、偉い人がいっているから本当ではないかと思いこんでしまいます。

卑下することをやめよう

 今日の学問というのは、偉い人がこう言っているからと思い込んでしまうことが非常に多いのではないでしょうか。自分自身に納得のいかないものというのは、どうしてももう一遍自分の目で確かめる、それが大事なことになってくるんだと思うんです。そこで話を元に戻しまして中国地方、特に広島県のこのあたりを歩いてみますと、「ここは山の中で田舎でございます。」という言葉がほとんどの人から聞かれます。そういうことを聞くたびに私は憤慨してくるんです。それではインドに住んでいたり、アフリカ、北極に近い所に住んでいる人たちはそれをどう言ったらいいんだろうか。それと中国の山の中とどちらが田舎なんだろう。そういう所へ住んでいる人たちが「ここは田舎でございます。」ということは言っていないのです。ところが、中国の山の中にくると「ここは田舎でございます。」と言うんです。私から言わせますと、中国の山の中も関東地方の山の中も田舎ではございません。なぜ、そういうふうにお互いが卑屈な言い方をしなければならないんだろう。

 アフリカのジャングルの中に住んでいる人たちでさえ「私は田舎に住んでいます。」ということは絶対言っていないのです。胸を張って生きておるんです。そのことから問題を一度考えなおしていただきたいと思うんです。

 私から申しますと、中国の特に広島の山中というのは、ある時期においては最も文化の高かった所でございます。最も文化の高かったというのは三次、庄原を中心にしてその盆地の周辺に、1500年以上前の古墳だけでも3000を超えて発見されていることでわかるでしょう。

 今から1800年前から1500年前にかけての間にここにはすばらしいほどの高い文化があったんです。それがいつ頃まで続いたのか、といいますと明治の中頃までです。何によって文化の高さがあったのかというと、この山中で鉄を産出し、あるいは牛を飼っておりました。

 日本の必要とする鉄のおよそ8割方はこの中国地方の山中から出ていたんです。

 牛はと申しますと、日本の牛の大きな産地はほとんどこの山中でございました。それでどうしてへき地でしょうか。しかもそれが1000年以上前の「延喜式」という書物の中では備中、備後の国というのは、租税のかわりに鉄だとかあるいは、絹だとかを貢物として出しておったことが書かれています。そういう大きな特産物を持った地域であった。それが文化を推進していくための一番大事なものであった。そういうことが言えるわけでございます。そうしますと、それを生産する力を持っていた。そういう人たちの生活というのは、決して低いものではなかった。それを例えば数字で申し上げてみますと、戦前にはご承知のように小作制度というものがありました。これは地主から土地を借りまして、耕作しておる人たちが小作でございます。

 広島県は比較的小作人が多かった。早くから土地の移動がみられ、それと、本百姓のほかに、 小家 ( こいえ ) であるとか、 浮過 ( うきすぎ ) という名前で呼ばれる百姓がおりまして、これは、皆小作系の人たちであった[6]。ところが、全体が本百姓、小家、浮過がほぼ同じような割合でおおわれておったのかというと、そうではなくて、例えば明治17年の小作率の統計をみますと、一番小作人の多かったのが、深安郡[7]の55%、それから沼隈郡[8]の42%、広島[9]の40%、山県郡の場合には16%、それから比婆郡[10]25%、そういうように広島県は、山の中には水田が多いのですが、多いにもかかわらず、山中に小作人が意外なほど少ないのです。つまり自作の方が多かった。自作が多いというと生活が安定している、中には大きな地主がおりました。大きな地主がおったにもかかわらず、この山中の生活というのは海岸地方の生活に比べますと、安定しておったということがわかるわけです。それが、昭和の初期になると変わってまいります。

 例えば比婆郡の25%の小作人が昭和8年になりますと46%にまで増えてきておるのです。広島は50%になっております。深安郡あたりはほとんど変わりませんで54%、沼隈郡で40%、ほとんど横ばいでございます。山の中の方が小作率が高くなっていっておる。それは何を意味するかというと砂鉄を取る製鉄業が消えていったということが大きかったと思うのです。これは後でもっと詳しく話したいと思いますが、そういうようにして、広島県の山中の生活のレベルが落ち始めたのはいつ頃からかと申しますと、明治の中頃から、すなわち砂鉄が洋鉄に取って代わった頃からということがわかるのです。

三つの地域

 それでは元に戻りまして、広島県全体というのはどういう所だろうかというのをみてまいりますと、広島県はおよそ三つに分かれている。この江の川筋に盆地が連なっておりまして、庄原、三次、西の方へ行って大朝のあたり、これらが江の川の流域になります。この江の川流域を中心にした地帯、その南に芦田川であるとかあるいは太田川であるとか、椋梨川であるとか、そういう川の流域地帯があります。これがまた一つのグループを成している。更に沿岸地帯、沖の島[11]、これが一つにくくられると思います。以上三つになっていると思うのであります。その三つがそれぞれ文化の上でも生産の上でもある特色を持っている、そういうことがわかります。

内海と島

まず、島の方からみていきますと、瀬戸内海の島は共通して土がやせております。山陽線を汽車で通られた方は、ご記憶があると思いますが、三原から尾道に到る島々というのはもとはろくに山に木がなくて骸骨のような島が浮かんでおります。あれを景色がいいと思った人もありましょうが、私は大変いたましい感じがしておったのです。

 普通地理学者たちはこれを骸骨島といっております。そういうふうに山の木がすっかりなくなってしまって骸骨のようになっておる。それが瀬戸内海の風景であったわけなのです。どうしてそうなったのかと申しますと、その海岸に塩田が開けております。

 広島湾の沿岸には塩田が少なかった。従って広島湾には山がはげた島が少なかった。まず宮島[12]は木が繁っている。能美島、倉橋島も繁っておる。しかし塩田の多い竹原のあたりからずっと東の松永[13]までの山というのは、ほとんど島も本土の山も木がなかった。というのは塩をたくために、大変たくさんのたき木を必要とした。それが山の木を乱伐させることになった。乱伐されると雨が降ると洪水を起こす。広島県というのは洪水の多い所だったのです。それを何とかしなければいけないというのが、江戸時代から明治にかけての海岸地方の大きな課題であったといっていいのですが、ちょうど江戸時代の中頃、今から300年前頃から、九州と山口県の宇部で産出される石炭が塩をたくのに利用されるようになりまして、山の乱伐が減ってきたのであります。そして次第に山に木が繁るようになってきたのです。瀬戸内海沿岸の貧しさは山の木を切ったことにあったと思うんです。それが大変大きな問題を呼び起こした。そして多くの川が水田面より川床の方が高い天井川になってきた。そして洪水を起こします。それにもかかわらず多くの人が住んだ。沿岸にずいぶんたくさんの人が住んだ。そういうように多くの人が住むようになったのは、何の力だったんだろうかというと、実はさつまいもの力であったといってよいのです。麦だとか、きび、粟、ひえというような作物を作っておったときには決して沿岸の人口がそう増えてはいなかったのです。そのことがわかりますのは広島の人口をみることです。

 1770年、明和7年に広島の城下の人家は3993戸だったのです。人口が1万2678人という数字が書かれています。今人口が60万を超える大都会の広島が今から200年前には1万そこそこの人口しかいなかったのです。広島がそうですから、尾道であるとか、三原であるとかの町は、ものの数ではなかったのです。海岸地方にはそんなに多くの人が住んでいたのではなかったということが、わかってくるのです。山の木は切られてしまっている。そういう所に人が住めるものではない。漁業があるではないかということになりますけれども、広島県の漁業は海が狭かったということが一つと、漁業の方法が愛媛県とは違っていたのです。愛媛県側の漁業は男が中心になっている漁業だったのです。よく申します村上海賊といわれるもの、それは[14]、男たちが船に乗り、男が漁をする。その漁をする連中が食うものがないというと、沖を通る船を襲撃してものを奪う。しかし広島側にはそういう海賊は少なかったのです。なぜ少なかったのかというと、広島側の漁民というのは船を家にしているのが多かったのです。夫婦あるいは子供が船に乗っている。そういうものは戦闘力を持ちません。戦争の中に家族を巻き込むということはないからです。従って、大きな網を持つということもなかった。手ぐり網[15]という網を持って沖で魚を取ってそれを売る漁業が広島の方の全般で見られた。そのことがよくわかりますのは、普通漁業権と申しますのは、その浦々に属しておったものだけれども広島県の漁業権は浦々に属するのではなくて、例えば、広島湾を二つに割って、それを大きな共同漁場を作っている。あるいは長浜[16]だとか、広[17]の沖はそれで一つの漁場を作っておる。

 大体六つの共同漁場がありましたけれど、そこへみんなが入会[18]の形で入っていく。それが広島県の漁業の特色だった訳です。そういうところへ、紀州(和歌山県)の漁師がやってきて、鰯網を引くことを教えることになるのです。鰯網は広島県へは和歌山県から入ってきております。これは大きな網であった。大きな網にもかかわらず、もともとの漁場での制度が生きておりますので、大抵は鰯網は鰯のおる地先で網を引くのが普通だったんですが、広島県の場合は鰯網の船が遠くまで出て行くのが特色だったんです。だから玖波[19]なら玖波という漁村の鰯網がずっと倉橋[20]の南まで網を引きに行っております。あるいは広のあたりの船は蒲刈[21]の南の方まで行っておる。そこで鰯を引きますと、これを製造するのにその現地に行ってやらなければいけないから煎り船という、船に釜を据えまして沖でそれを煎り子にする。そういう船が発達していった。いわば鰯工船なんです。

 水産物を船によって加工するという技術を開発したのは恐らく世界で広島の漁師が最初ではなかったろうかと思っているのです。それは漁場のあり方にある。古くからの漁場の経営の仕方にあった。それが広島の漁民の特色であった。

 海賊が出ていることが、今日では自慢になっている。そしてその遺跡が観光資源になっていたりしますが、むしろ海賊を出さなかったということは広島の人たちは誇りに思っていいのではないだろうかと私は思います。そういう人たちが陸上がりを始めた時に塩田の発達が見られる。

 塩田が発達するとそれが山の木を切ってしまうようになる。木を切った所を畑にしてさつまいもを植える。さつまいもを植えるとそれで食料がまかなえるようになる。その余った労力で木綿を生産するようになる。木綿を作って機織りが盛んになる。つまり生産の条件が悪くなってもそれを克服する力を持っていたのであります。それによって生産が下がったのを別の形で、つまりいろいろの生産技術でそれをとりもどしていった。それが、広島県の海岸地方、特に島を中心にして生きていた人の生き様であったのだと言ってよいと思います。

瀬戸内海斜面

それに対して沿岸から内部にかけていわゆる、瀬戸内海に川が流れ込んでおる地方の人たちはどう変わっていったんだろうか。何をしていたんだろうか。こういう問題がまず考えられます。この広島という町は城下町であります。そこにはこれという生産がなかった。なかったけれどもよく見ておりますと、その周囲にいろいろな産物がある。

 太田川という川がある。川の奥の方には加計[22]のような鉄を生産する所がある。そうしますと、鉄が川を通じて下流に運ばれる。そして、鉄を利用した小さな家内工業が興ってくる。

 特にみごとなものが風呂釜だったわけでございます。

 鋳物工場というのが広島の今のような近代化する工業以前の工業の一つの姿だったんです。またよい鉄がたくさん出るということで、縫い針の産地になったんです。縫い針がやがてミシン針に転換していった。またヤスリなども作られた。それは特に鉄が出たということでございます。

 同じように備後の方も鉄が出てまいります。それを受けて鞆[23]と尾道がいかりの大きな産地、船釘の大きな産地になります。

 和船の船釘というものはほとんど鞆で造られています。いかりに至っては大半が鞆で造られている。

 そうしますと鞆でいかりが造られ、あるいは船釘が造られると、必ず人はそれに関連する何かをついでに造っていく。ちょうど木綿がたくさんあるために、木綿糸を使って網が造られるようになります。

 鰯を引いたり、あるいはそのほかいろいろな魚を取る網の生産が鞆を中心にして発達してくるのです。そういうように海岸地方に少しずつ工業的産業が発達してまいります。しかし大きな集落というのは、それほどなかった。例えば呉という大きな町がありますが、呉なんかは鎮守府[24]が置かれるまでは、民家というものは800ほどにすぎなかった。

 交通の便利がよいということと、奥地から鉄が出る、それから綿を作る、そして繊維工業が興ってきた。こういうことから農業以外の仕事が段々増えてきた。それが明治維新までの状態だったわけです。

 特に大事なことは繊維でございます。つまり木綿です。綿を作るということは、関東は大変少なかった。ほとんどが関西だったわけです。その多い綿を基にして企業的に木綿が織られるようになりました。その織られた中で我々の心に留まるものがある。絣でございます。絣といわれるものは久留米絣[25]がその最初にあったと言われる。それが伊予に渡って伊予絣[26]になり、広島県の府中[27]を中心にして備後絣[28]、山を越えまして、米子を中心とした浜絣[29]、そういうように、西の方に大きな木綿の産地が興ってきます。その絣が船に積まれて東北から関東へ商品として広がっていった。これを日本の織物の歴史から見て大変興味がありますことは、絣というものは、西日本にあり、東日本になると、縞が多くなっています。

 東の方には絣の産地がほとんどない

 日本の文化は中部地方を境に織物でみましても東と西とで、はっきり差が見られる。その差がどこにあったかというと西の方は木綿の産額が多かった。その中心を成しているのが瀬戸内海の備前あたりから周防あたりの海岸であります。そういう所で絣が織られている。なぜかというと、江戸時代には百姓は赤い色が許されなかった。紫色が許されなかった。このように百姓の着るものには色の制限があったわけです。そこで許される紺色を最も生かす模様が絣であった。人間の工夫によってあの素晴らしい織物ができた。紺と白を織り分けることによって。そういうものが瀬戸内海の沿岸部を中心として生まれるようになった。

 ただし規則というのは面白いものでして、外側に赤い色の着物を着てはいけないが、下に着るものは文句を言われなかったから長襦袢など、下着の色はきれいだった。

 今日は上に色物を着るのがはやるようになりましたが、なぜ当時は上に着せるものが地味で下に着るものが派手だったかというのは、それが原因だったからです。

 赤が許されるようになりますのは明治になってからです。明治13年にドイツから赤い染料が入ってきて、それから我々の生活の中に赤い色がたくさん入ってきた。

 瀬戸内海における変化というものを考えてみますと、今申しましたように食うものすら十分でなかった。それをさつまいもによって補っていた。さつまいもをてこにして、繊維工業が興ってきた。

 自分らの生活を自分の手で組み替えていき、それが近代化への道につながっていく。例えば、広島県の海岸地方が大きな飛躍を見せ始めるのは広島まで鉄道が敷かれ、明治27年に山陽線が広島まで延びました。その年に日清戦争が起こった。そうすると兵隊たちは広島まで来て、そこから船に乗る。それで宇品[30]が発達する。宇品はそれまで、長年千田知事[31]が大変な決心のもとに高額の投資をして港を改港しておりましたが、それが役に立って、広島が発達を始めました。

 更に続いて呉、鎮守府が置かれるようになる。そしてここに二つの大きな軍都が生まれてくるわけでございます。そのことについていいますと、広島の場合にはここに師団司令部が置かれ、それから大本営が置かれまして[32]急激に人口が増えていって明治28年には8万6000人という人口をかかえる町に変わっていきました。それは軍隊がこれを支持したわけです。

 同じような変わり方は呉にも見られました。呉にも先ほど申しました小さな漁村であったものが、ここに鎮守府が置かれることによってわずかの間に人口が10万近くになります。

 このように広島県における海岸地方の異常な発達は、軍と結びついて生まれたといっても差し支えないと思います。そして中国地方では広島が最も活気のある町になっていったわけですが、ところがそういう大きな工場都市ができますと、それ以外の所は下請けの工場を造るだけにとどまります。それだけでなく、そこに軍の強力な基地が置かれますと、その周囲は地図を明らかにすることも写真をとることも許されなくなり、工場やいろいろの施設を造るにも軍の許可が必要になる。

 今は広島の地図が出ておりますけれども、太平洋戦争がすむまでは広島の5万分の1の地図は我々手に入れることができなかったのです。数字をとることが許されない、測量することが許されない。大きな海軍工廠や軍の施設を造ることは許されたけれども、それに対抗するような工場の設立というものはその周囲では許されなかった。下請け工場だけだったのです。これは広島を考える場合に大変重要な要素になるものといって差し支えないんではなかろうかと思います。

 後に大竹[33]へ石油燃料の工場が置かれるようになりますが、これは軍の施設になります。これが戦争によって壊滅します。広島の場合は、ここに原爆が落とされた。なぜ原爆が落とされたかといえば、ここが軍都であったからということになるわけです。

 大竹の工場は長い間鉄骨のまま放置してあったのを皆さん方ご承知のことだろうと思います。しかしそこにそれだけ敷地があり、それを下敷きにして大竹における石油コンビナートの発達、広島における自動車産業の発達、呉における造船の発達、それから三原[34]は戦前から繊維工業が見られましたが、これが人絹工場の進出になっていく、更に伸びていく。そうしますと、先ほど申し上げましたような、戦前までの基盤がそのまま民間に移って今日の発達になっているということがわかっていただけると思います。

 文化の発達であるとか、産業の発達であるとかいうのは、いきなり変わっていくものでなく、そこにそれだけの基盤があり、それがどう受け継がれていくかということにあるのだと思います。このように広島の海岸地方はもとの軍の施設を中心にして、民間産業への切り換えが行われて今日の工業の発達が見られた、こう考えて差し支えないと思います。

 それではそれ以外のもの、つまり軍のこれだけ大きな工業以外のものがどれだけの変わり方をしていったんだろうかと申しますと、これはもとはほとんど手工業的なものでした。手工業的なものはそのまま受け継がれていくのが特色なんです。例えば、松永をみますと、これは下駄の町です。その他ここでは塩を作っています。入浜法、その次の流下式製塩が終わるまで塩が作られています。

 こういうものは戦前も戦時中もなしにずっと作られている。このほか手工業の大きな工業基盤は宮島であったと思います。宮島は杓子を作ったり、お盆を作ったり、あそこにたくさんの木地屋が集まっておりました。

 日本で一番大きな木地屋の集落は宮島だったわけです。それが今日まで続いてきておるわけです。しかもそれが方々の名所や旧蹟に分かれて各地の土産物を作ってきているのです。

 また古く行われていた産業の中で酒があります。酒はずっと古くから今日まで大きな工場で生産されるということはなくて、三原にしても西条[35]にしても、古い経営がやや規模を拡大するということで今日まできております。つまり民間の産業がそのまま発達していく場合には、伝統という形を崩さないでいくのが特色なんです。広島県における工業というのは二つの面を持っている。一つは軍が管理しておったもの、それが戦争によって、たたきのめされ、そこに広い空間が生まれ、それを利用できるような条件を持った大きな産業が入り込んだ。

 伝統的なものは依然として伝統を守って今日に至っている。

 仁方[36]のヤスリにしてもそういうことがいえる。その両方が相まって、この広島県の海岸地方の産業が今日のように至っている。これが海岸地方とその背後地を活動的にさせる力になっている。そういう所にそういう工場が発達すると、そこに多くの労働者を必要とするようになる。その労働者を供給するために、その背後の農村の人たちがそこへ出稼ぎに行く、あるいは通勤する。そういう形式が生まれる。

 瀬戸内海へ川が流れている斜面の人たちがそこへ出て行く。江の川の流域の人たちはそういうことが起こってきていない。( 以下次号)

(初出 広島県統計協会の機関誌「統計の泉」昭和53年12月号)


[1] 広島県三次市。十日市、三次町は市内の町名。

[2] 明治以降、大坂から大阪の表記に統一された。

[3] 稲垣尚友(1942〜)。「悲しきトカラ」など、トカラ列島の研究も行う。

[4] 茨城県笠間市。ただし、稲垣氏は現在千葉県鴨川市在住。

[5] 三次市周辺では、「とらへい」「とのへい」と呼ばれる。

[6] 小家と浮過はどちらも小作で、小家が家を持つもの、浮過が借家住まいのもの。

[7] 現在、全域が福山市に編入。

[8] 現在、福山市・尾道市に編入。

[9] 広島市部。

[10] 現在、庄原市に編入。

[11] 瀬戸内海の島のこと。

[12] 佐伯郡宮島町。現 廿日市市宮島町。

[13] 福山市松永町。

[14] 村上水軍は、伊予能島、来島、備後因島に本拠を持ち、南北朝時代から戦国時代にかけて活躍した。

[15] 「テグリ網というのは、ごく浅い海に漁船を投錨して一定の位置にとどめ、ちいさい袋状の網を海底にかけまわし、船のトモとオモテから夫婦で順次に網をひきよせ、船内にくりあげ、漁獲するものである。機船底曳き網やトロール漁業の出現によって、この漁業が大打撃をうける以前には、全国いたるところの沿海でよく見受けられた漁業である。漁獲物は、カレイ・ヒラメ・タイ・エビなどであったが、あらゆる底棲の雑魚類がこの網にのった。」(羽原又吉「漂海民」1963年、岩波新書 115ページ)

[16] 竹原市忠海町長浜。

[17] 呉市広。

[18] 「一定地域の住民が、慣習的な権利によって特定の山林・原野・漁場の薪材・緑肥・魚貝などを採取することを目的に共同で使用すること。」(三省堂「大辞林 第二版」)

[19] 大竹市玖波。

[20] 安芸郡倉橋町。現、呉市倉橋町。

[21] 安芸郡蒲刈町。現、呉市蒲刈町。

[22] 山県郡加計町。現、安芸太田町。

[23] 福山市鞆。

[24] 1889年に呉に海軍鎮守府が置かれた。

[25] 久留米市周辺で生産。1800年に井上伝が発明。伊予絣、備後絣とともに、日本三大絣と呼ばれる。

[26] 愛媛県松山市周辺で生産。1822年、鍵谷カナが考案。

[27] 府中市。ただし、絣の生産の中心は広島県芦品郡新市町(現 福山市新市町)。

[28] 広島県芦品郡新市町(現 福山市新市町)周辺で生産。1853年、富田久三郎が考案。

[29] 鳥取県米子市を中心に作られている弓浜絣のこと。

[30] 広島市南区宇品。広島港がある。

[31] 千田貞暁(1836〜1908)。広島県知事在任は1880〜1889。

[32] 1873年に広島鎮台(第5師団)が置かれ、1894年、日清戦争のために大本営が置かれた。

[33] 広島県大竹市。

[34] 三原市。帝人・三菱重工業などの工場が立地しているほか、酔心などの酒蔵がある。

[35] 東広島市西条。賀茂鶴など多くの蔵があり、伏見(京都)、灘(兵庫)とともに酒造りが有名。

[36] 呉市仁方。ヤスリの生産が盛ん。

山口県の周防大島大島に生まれる。大阪府立天王寺師範(現大阪教育大学)卒業。渋沢敬三に見込まれて民俗学の道に入る。常に社会の底辺にいる人たちを生活者の目で観察した。宮本が所属したアチックミューゼアムは後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収された。

経済的に立ち後れた離島を精力的に回って、島の振興に力を注いだ。離島振興法の生みの親と言われている。

宮本常一は日本全国を隈無く旅をして、子供や労働に汗を流す男や女、街角、港、看板など、あらゆるものを撮影した。戦後だけで約10万枚の膨大な写真が残されている。

美しきわが故郷・鞆の浦

NPO法人鞆まちづくり工房 松居秀子さん

  −埋立架橋計画を許さないー

鞆港は万葉の昔から栄えた港だった

松居秀子さんの住まいは、福山市鞆町の、港を見下ろせる高台にあった。NPO法人鞆まちづくり工房の事務所にもなっていて、若いスタッフがパソコンに向かっていた。窓からは古い町並みが眺望でき、屋根と屋根の間から青く輝く鞆の海が見える。

松居秀子さんは、昭和25年に鞆港の真ん中で生まれ、育った。かつて1万人だった町は現在は約5000人、全国チェーンの飲食店の看板もここまでは押し寄せていない静かなたたずまいの町である。

「子どものころはアサリをとったり、泳いだり、古い町家が建ち並ぶ町内を走り回って遊んだものです」

 松居さんは、大学時代とその後の会社勤めの8年間はふるさとを離れたが、26歳で鞆に戻ってからは、塾を開いて子どもたちに勉強を教え、船のエンジン技師と結婚し、出産し、子どもを育てた。家を一歩出れば行き交う人たちとはみんな顔見知りで、立ち話で道草を食ってしまう。鞆は人が暮らしていくに程よい大きさの町だと思っている。

「東京がまだ江戸村といっていたころに、鞆はもう既に都会だったんです。万葉の昔から、ここは潮待ちの商業港として栄えました。鞆の沖合で豊後水道と紀伊水道がぶつかっていて、鞆の浦は潮の干満が大きいのです。それを利用して船は入り、そして出て行ったんです」

 鞆港は、天然の円形港湾で、かつての繁栄をしのばせる史跡や建築物が町の各所に点在している。

 港の中心には、シンボルとなっている常夜燈がある。常夜燈というのは、船の出入りを誘導する燈台で、高さが5m以上もある石造りの塔である。安政6年(1859年)に地元の西町の人々によって寄進されたという。

ほかにも、雁木(がんぎ)があり、焚場(たてば)の跡があり、船番所がある。雁木というのは、船荷の積み降ろしを容易にするための船着場で、潮が干いても満ちても船が水平でいられるように階段状につくってある。ちょっと想像力を働かせれば、船から雁木に足場板を渡し、水夫たちが板の揺れにバランスを取りながら、荷物を運び込む光景が浮かんでくる。

焚場というのは、昔の木造船は長い航海では船底にフジツボやカキなどの貝類や船虫が付着したため、これを焼いて取り除き、乾燥させる船体修理所である。鞆の港は波が穏やかで干満の差が大きいという地理的条件に加え、碇や船釘の特産地でもあり、船大工の技術者も多かったので、瀬戸内の港の中でも特に繁栄した。

船番所というのは、船の出入りを取り締まり、安全を監視する建物だった。今の番所は昭和30年ころに建て替えられたものだが、見事な石垣が残っている。鞆港は朝鮮通信使が立ち寄る港だったから、往時の役人たちは、この番所から通信使の船が入ってくるところを望見したことだろう。鞆港は歴史を日常的に感じることのできる町であり、あの戦争でも空襲を受けなかったから、時代劇に出てくるような風景がそのまま残っている。

実際、テレビや映画のロケに使われることも多く、本誌が訪ねた日は、稲垣吾郎主演のテレビドラマ「悪魔が来たりて笛を吹く」の撮影が行われていた。

 

驚天動地の埋立計画が発覚

松居さんが、愛してやまないこの鞆港に、埋立架橋計画があることを知ったのは、1992年のことだった。港を埋め立てて、バイパスを通すというのである。この計画のあることを知った時、松居さんは耳を疑った。まさか、この天然の良港を、単に福山だけのものではない、世界にも誇れる港をつぶそうと考えた人がいることが信じられなかった。

「その計画があることを知った時も、鞆の町民が許すはずがないと、楽観的な気持ちでいたんです。町民全員の猛反対に遭って、当然、立ち消えになる話だと思っていたんです。しかし、だんだん分かったことですが、必ずしも反対の人ばかりではありませんでした」

埋立架橋計画は、その9年前の1983年には広島県が福山港地方港湾審議会の答申を受け、鞆港湾計画を策定 していた。埋立面積は4.6ヘクタールとなっていた。

 日本の公共工事の多くは、最初は極秘に深く静かに潜行する。関係者のごく一部にしか知らされず、着々と計画は策定され、住民の間に公表された時は、反対してもどうにもならないぐらいに周到な準備が進められていて、関係者への根回しも進んでいるというケースが多い。

 松居さんは、直ちに行動を起こした。

「推進派は何も行政や議員さんたちだけではなく、鞆の主要産業である鉄鋼団地の企業、老人会、町内会の連合会、そして一般の住民の中にも利害が絡んでか、計画に賛成を表明する人たちが少なからずおりました。しかし、私たちも鞆の町並みを守ろうとしている住民がたくさんいることを示すために、すぐに反対署名運動を起こし、1993年には6821人の署名を集めました」

 松居さんたちの反対派に対抗するように、推進派も鞆町内会連絡協議会、鞆鉄鋼連合、医師会などが一緒になって、「鞆港整備ならびに県道建設期成同盟会」を結成し、賛成の署名を集め出した。そして同じ年に、わずか10日間で8178人の計画推進の署名を集めた。これによって埋立架橋を進めたい市側は、鞆の住民の大多数が賛成していると主張したのだが、2006年、反対派の再度の署名運動で1万2680人を集めたことによって、その信憑性が疑われる結果となっている。署名した人数は両派とも鞆の人口を超えているということは、この架橋計画は全国的な関心を集めていることを示している。

架橋計画を断念させるための松居さんたちの長い戦いが始まった。なぜ、この歴史的由緒のある港湾を埋め立てて道路を造らなければならないのか、誰でも不思議に思う。 

推進派の理由は、道路の渋滞解消のためだという。確かに鞆の町の中は狭い。町の中心地から外れている平地区や隣町の沼隈町の住民が福山市の中心部に出る時には、鞆の町の中を通らなければならないので、朝夕のラッシュ時は渋滞になる。また、道幅が狭いために大型車が通れない。港を埋め立て、道路を造ることによって通行がスムーズになり、経済効果は計り知れないという理由である。前述の1993年に、推進派が署名を集めるために住民に訴えた文書には、次のような一文があった。
「福山市を訪れた人が、観光の目玉として第一に目をつけるのは我が鞆町であります。風光明媚しかも千数百年の歴史に彩られ、幾多のロマンに満ちた古い港町、鞆の浦。
 私たちが世に誇るこの鞆の浦の現状は如何でしょう。年とともに過疎の波に洗われ、活性化を失いつつあるのではないでしょうか。そこには早急に解決しなければならない多くの問題が横たわっています。
 その第一は何と言っても道路と港湾の問題です。昨年2月、地元住民の声を反映し、県は『鞆地区道路港湾計画検討委員会』を設置し、焦眉の急を告げているこの問題の解決を検討中であります。この計画は、港湾の一部を埋め立て、架橋により港の両端を結ぶという方法であります。
 この案に対し、一部の人からは『鞆港を埋め立てるとか、港に橋を架けるとかは全くの暴挙である。断じて許すことはできない』との声が聞かれます。この声は私どもと同様、鞆を愛し、鞆の風致をあくまでも守ろうとする貴重な声です。然し鞆港を埋め立てるにしても、港の北端、必要最小限のほんの一部を埋め立てるのみ、架橋にしても、鞆港の風致を損じない、むしろ風景にマッチしたものをとの考えです。
 町民の皆さん、どうかこの検討委員会の案に御賛同下さって御署名下さい」

 推進派は、過疎化を止めるための埋め立てだと言っているが、その主張に妥当性はあるのだろうか。多くの公共事業が大義名分にもかかわらず、必ずしも経済の発展に結び付かなかったことは多くの例が示している。

今や、道路や埋め立ての公共事業で地域経済が活性化できるほど社会構造は単純ではない。短期的に潤うのは、ゼネコンであり、献金を受ける政治家であり、下請けの土木、建築業者であり、工事期間中に作業員が寝泊まりする旅館であり、定食屋さんである。工事が終わって10年もたてば予測とは違って、経済は思ったように活性化せず、寒々しい光景だけが広がることだろう。市や県は、公共事業で地域経済の発展を願っているのだろうけれど、そこに投入される膨大な金は砂漠に水が染み込むごとく、跡形もなくなってしまうだろう。行政の担当者の想像力は貧困というしかない。

 松居さんたちはあらゆる方法で計画撤回を迫ってきたが、反対派が増えるよりも行政のあの手この手の切り崩し作戦で、むしろ計画に賛成する人が増えていった。

松居さんたちは2000年に、広島県知事に次のような要望書を提出した。

私たちは、現在進められている鞆の浦埋め立て・架橋計画が、世界遺産にも相当する歴史的港湾と一体となった、町並み及び鞆の風土、生活環境を破壊し、鞆の浦の将来に大きな禍根を残すものであると考え、かねてより反対の意思を明らかにしてまいり、代替案を提示してきました。そして、このような事業には必ず十分な納得と地元合意がなされなければなりません。そのためにも、私たち保存派の意見にも十分に耳を傾けていただけると思っておりました。
 しかしながら、先日の新聞報道(「中国新聞」1月27日)にもありましたように、このたび県は、地元の「理解を得た」として、2月4日に福山港地方港湾審議会へ諮問することを決定されました。私たちは、計画に合意をいたしておりません。何故このような決定がなされたのか理解に苦しむところであり、到底容認することはできません。
 とりわけ、賛成派の市民団体等に対する個別の再説明を以て地元説明を終えたとされているのは、反対派住民が意図的に除外されたことを意味しています。これは、著しく公平性を欠く手法であり、信じがたい暴挙であると言わざるをえません」
 松居さんたちの腹立たしさ、情けなさ、無念さが伝わってくる。松居さんたちを応援するために立ち上がったのは、地元よりもむしろ県外の学識者たちだった。

県外の学識者や研究者たちが支援した

 1999年には、日本大学理工学部による港湾遺産調査が始まり、2000年には東京大学都市デザイン研究室による町の調査が開始された。その年には、西村幸夫東京大学教授らの協力を得て、「World Monuments Fund(世界遺産文化財団)」の「危機に瀕する遺産リスト100」に遺産登録を申請したところ、翌年には鞆の浦の文化遺産の価値と、その危機が認められた。2004年には、財団のスポンサーであるアメリカン・エキスプレス社より10万ドルの助成金を得ることができた。

 また、2005年10月には、中国の西安でICOMOS(国際記念物遺跡会議・通称イコモス)の総会が開催されたが、そこでは日本政府および地方自治体に計画中止・保存促進を訴える「鞆の浦保存決議」が採択された。

内外から多くの学者や研究者が広島県や福山市を訪問し、埋め立てを中止するように要請しているが、今の段階で、行政側にはそれらの要請に耳を貸す気配はない。

「どんなに偉い先生たちが鞆の文化的価値を力説しても、馬の耳に念仏なんです。私は鞆を視察に訪れる外国人の方々に、この架橋計画を説明すると、一様にステュピッド(ばかげている)とかクレイジーとか言われるので、本当に恥ずかしい思いをしています。鞆は世界遺産に登録される可能性もあると大学の先生たちからアドバイスをいただいているので、市に遺産登録を進言しているのですが、いつも無視されています。世界遺産になれば、一躍全国区になり、観光地としても有名になる可能性もあるんですよ。ところが市長は、“鞆が世界遺産に選ばれる保証が100%あるのか。ないのならそのために埋め立て事業を3年も5年も足踏みすることはできない”という返事なんです」

 松居さんは、鞆の危機を一人でも多くの人に知ってもらうために、まちづくりのセミナーやシンポジウムに参加して訴えてきた。続々と支援者や仲間ができた。2003年に設立したNPO法人鞆まちづくり工房の顧問には、法政大学の五十嵐敬喜、同じく陣内秀信、東京芸術大学の前野まさる教授などそうそうたる学者の名前がある。

 この埋立架橋計画を追及していくと、計画の背後にあるものが少しずつ見えてくるようになった。松居さんたちは、交通渋滞を解消するというのならば、埋め立てよりも山側のトンネル案のほうが、工費も安く、工期も四分の一で済むし、排気ガス、騒音の心配もないと提案したのだが、まるで取り合ってもらえなかった。何が何でも港を埋め立てたいという姿勢には、港湾の工事を得意としているゼネコンとの関係が見え隠れするのだった。推進派の主導者は、このゼネコンと親しく、そこに地元の有力政治家や鉄鋼関連の企業の思惑も絡んでいるようでもある。行政はCGを使用したトリックまがいの完成予想図を作成して住民を洗脳しようとした。そのため、従順な住民たちの一部には、行政のやることに反対するのは悪いことだと考えるようになり、強硬に反対している住民は、親類や会社を通して脅かされたり、嫌みを言われたりした。

「狭い道というのは、鞆だけではありません。尾道市は急な坂道ですが、それを逆手にとって観光資源にしています。また、民家が密集しているために道路の拡幅ができない地域では、部分的に拡幅をして待避所をつくり、お互いに譲り合いながらスムーズに通行しています。この計画のおかしいのは、埋立架橋をしたとしても、鞆の町の中の道が広くなるわけではないのに、架橋が実現すると町の中の交通事情がすべて改善されるような錯覚を起こさせるように宣伝していることです。

これまでに、道路が狭いために救急車や消防車が間に合わなかったことはありません。狭い道の場合は、消火栓の充実や、小型車両の配備などの知恵を働かせて解決できると思います」

住民の賛成を得られない公共事業は予算の無駄遣いだけではなく、昔ながらの地域コミュニティーを破壊し、町に対する人々の愛着心まで変えてしまう。人の気持ちまで変質させてしまうのだ。

推進派に老人会の名前があるのが不思議だった。本来ならば、鞆の自然にいちばん愛着のあるのは年配の人たちなのではないだろうか。

「そうなんです。鞆では、若い人よりも、むしろご年配の方たちのほうが開発志向なんですよ。“新しいものができるのはええこんじゃ”と言ってるんです。中には、“パリにもエッフェル塔があるじゃねえか、埋立てでできた道路を観光名所にすればいいんじゃ”と突拍子もないことを言い出すご老人もいるんです」
 日本人はいつから、美的なものにかくも鈍感になってしまったのだろう。土木国家といわれてから久しい。全国のあらゆるところで、美しい自然が壊され、コンクリートだらけにされている。


									

 坂本龍馬ゆかりの町家の再生にも取り組み中

 松居さんが埋立架橋計画の反対運動にかかわったのは1992年からだが、それ以前から町家保存には熱心だった。江戸、明治の歴史的な建物が空き家になり朽ちていくところを傍観していることはできない性格らしい。

結婚して間もなくのころ、一軒の古い町家が空き家になり、放っておけば取り壊される運命になっていたのを借りて、陶器とお好み焼きの店を開いた。次に、大正ロマンの雰囲気のある散髪屋さんが空き家になった時も、やはり借りてしまった。借りてから活用方法を考えて、ハヤシライスの店を始めた。どちらももうかるまではいかなかったが、古い町並みを保存したいというのは採算性を度外視した松居さんの本能のようである。記憶に刻み込まれた風景が変形していくことには耐えられないのだろう。

戦後の日本の経済発展は、日本人から美意識をはぎ取ってしまったようである。美しい自然がコンクリートで取り囲まれても嫌悪を感じず、ある日突然、古い町家が取り壊されて駐車場になっても、何も感じない日本人が増えてしまった。松居さんの戦いは、日本人の美意識のありようを問い直しているようにも見える。

埋立架橋計画では、重苦しい空気が漂う鞆の町だが、松居さんが主宰するNPO法人鞆まちづくり工房がいま、一軒の町家の再生に取り組んでいるのは明るい話題である。この町家は修復が終わる来春、坂本龍馬ゆかりの旅館として営業を開始する予定だ。

坂本龍馬は、慶応3年(1867年)4月19日、海援隊のいろは丸に銃器弾薬を積んで、長崎港を大坂に向けて出航した。オランダ人ボードウインから買い入れた45馬力160トンの蒸気船である。こところがこの処女航海の折に、鞆の浦の沖合で、4月23日午後11時ころ紀州藩の明光丸と衝突した。明光丸は150馬力、887トン。いろは丸はひとたまりもなく沈没した。明らかに明光丸に非がある海難事故だった。しかし、明光丸は徳川御三家の大藩の威光をかさに着て損害賠償の交渉を行わず、そのまま長崎に向かおうとした。龍馬は、海難事故は発生場所に最も近い場所で話し合いを行うのが「万国公法」であると主張して、鞆港の魚屋萬蔵宅で、紀州藩の責任者高柳楠之助と談判した。この歴史的な魚屋萬蔵宅が老朽化し、売りに出された時、松居さんは黙っていることができずに買い取ってしまったのだった。買い取り資金は篤志家からの借り入れや財団からの助成を仰いだが、まだ足りないために、一枚1万円の瓦基金を募集中である。

鞆の浦の海難事故の談判から7カ月ほどの後、坂本龍馬は京都河原町の近江屋で暗殺された。31歳の生涯だった。翌年が明治維新、もしこの災難に遭わなければ坂本龍馬は幾つまで生きただろうか。70歳まで生きたとしたら明治39年、夏目漱石が『坊っちゃん』を発表した年まで生きたことになるし、80歳まで生きたとしたら、大正5年の大隈重信内閣の時まで生きたことになる。彼は一体、その後の人生でどんな仕事をなし得たのだろう。西郷隆盛に新政府の役人の人事案を提示した時、自分は新政府には入らないと言明しているから、世界を股にかけた海運王にでもなっていたのだろうか・・。

歴史的建築物とは、このような想像をたくましくさせてくれるからこそ、簡単に取り壊してはいけないのだ。歴史に学ばない国家は衰退するという言葉もある。片っ端から古いものを壊して、脈絡のない建物を建ててきたから、今の日本は薄っぺらな文化と閉塞感で覆われてしまったのではないか。

松居さんは、魚屋萬蔵宅だけでなく、一軒でも多くの町家を保存するために「空き家バンク」や「鞆・町家エイド」を立ち上げた。「空き家バンク」というのは、町家を貸したい家主さんと、古い町家などで店を始めたい人の仲介をするものだ。もちろん、不動産業ではないから、手数料は無料だ。「鞆・町家エイド」というのは、もっと積極的に貴重な町家を保存し、改修して再生を図ろうという取り組みだ。

「鞆の町には、江戸・明治の町家が200棟近く残っています。その中でも江戸期の町家、蔵、小さな社などが危機に瀕しています。そこで、貴重な財産を守るため『鞆・町家エイド』を広く呼び掛け、1億円の基金を集めて町家を守りたいんです」

呼び掛け人には、これまで松居さんの考え方に共鳴して応援してくれた人々が名前を連ねている。池田武邦(日本設計名誉会長・呼び掛け人代表)、大林宣彦(映画作家)、大西健丞(NGOピースウィンズジャパン統括責任者)、宮崎駿(映画監督)、C・W・ニコル(作家)、アレックス・カー(東洋文化研究家)といった人たちだ。発起人たちの誰もが「いま修復しないと取り返しがつかない」と指摘し、「孫の代を見据えた町づくりを」「民間の力を合わせて文化財を守ろう」と主張している。

松居さんは物腰のやわらかい、ごく普通の主婦である。女性運動家にありがちな闘争心が顔にあふれている人ではない。

「ただ自分の暮らす町が美しくあってほしいと思っているだけです。日本は経済発展のために、お金と引き換えにかけがえのない多くの自然や歴史的な建築物を失ってきたのではないでしょうか。歴史的な町並みは、一度失ってしまえば、取り返しがつきません。何とか同じ気持ちを持つ人たちとつながって、鞆の町を守りたいと思っているのです」

 松居さんたちの必死の活動にもかかわらず、市側は埋立架橋をあきらめていない。行政のメンツもあるのか、いかに計画の弱点を指摘されても一歩も引かない構えである。松居さんたちとて、50年100年の鞆の町のことを考えれば、とても引き下がれるものではない。最後の決め手になるのはやはり世論の盛り上がりだろう。読者各位にも十分な関心を払っていただきたくお願いするものである。

■     NPO法人鞆まちづくり工房 〒720-0201 広島県福山市鞆町鞆5

TEL&FAX 084・982・0535 e-mail npo-tomo@vesta.dti.ne.jp

URL http://www.vesta.dti.ne.jp/~npo-tomo

『かがり火』特別国会開催地域を救うオリジナル新法

国会では教育基本法の改正が論議されているが、本誌は、それよりもっと大切な法律をつくることを急がねばならないと考えている。それは、衰退する地域を元気にするための法律だ。従来の法律や条例では、都市と地方の格差は是正できない。前号で面白法案の募集をしたところ、霞が関からはゼッタイ出てこないような大胆で斬新、かつユーモアに富んだ法案をたくさん寄せていただいた。

これらの法案を、仕事を通じて地域に深くかかわってきた三人、●(新聞社勤務)、▲(元国家公務員)、■(元地方公務員)と本誌の合評というかたちで紹介させていただきます。

都市住民へ理解を求めるための法律 

本誌 本誌はかつて「第二住所制」なる制度を提案したことがあるのですが、少なからぬ反響がありました。この制度は都市住民に地域にもっと関心を持ってもらいたいという気持ちから発想したものです。地域の衰退は、もはや地域だけで解決できる段階ではないと思っています。都市住民の積極的なかかわりがなければ中山間地の過疎地は再生できません。そこで都市住民には、過疎地に第二住所を持ってもらって常に地方を意識してもらうことを考えたわけです。

● この提案には大賛成です。必ずしも住居を持たなければいけないというのではないんですね。いろいろな証明書や申請書などの書類には、第一住所欄と第二住所欄があって、現住所を記入する時には、必ず第二住所も書かなければならない、そのたびに都市住民に地方を意識してもらうということですね。

▲ キムタクだろうが、総理大臣だろうが、必ず過疎地域に第二住所を登録しなければならないというのは面白い。大臣や大企業の社長さんたちが軽井沢に別荘を持つというのとは違って、条件不利益地域と呼ばれる山間地に登録してもらうわけだから、内容がまったく違いますね。年に何回かは、登録された土地を訪ねて社会貢献活動を行わなければならないというのは、本物の国会でも論議してもらいたいアイデアです。

■ 第二住所を年間一度も訪問できない場合は、第二住民税を支払わなければならないというのは、千葉大学の新藤宗幸教授や京都学園大学の坂本信雄教授らが以前から提唱している「第二住民税」というのに似ています。現在の居住地だけでなく、過去や未来の居住地、あるいは実家のある土地や出身地、応援したい町に住民税の一部を回す仕組みです。納税の際に当人の意思で自治体を指定できるという案です。

千葉県市川市は1%支援条例で、個人市民税の1%を、指定した市民活動団体などの助成に回す仕組みを導入しましたが、これはあくまで当該自治体の中で使途を指定できるという制度です。また、ハンガリーでは「パーセント法」という法律で、国民が指定して所得税の1%を非営利組織に、もう1%を教会や政府の特別事業に回す制度を1997年から実施しています。

本誌 このままでは地域間格差がますます広がるという危機感は、本誌の読者ならみんな持っていると思います。過疎化や地域経済の衰退は、地域の努力不足ではないんです。長年、能力ある地方の人材を都会で吸収した政策の結果ですから、都市住民はそのことに思いを致す責任はあると思うのです。それに、地震などの災害の時に、第二住所のところに優先的に避難できるとしたら、都市にも地方にもプラスになると思います。言い換えれば、「疎開先登録制」と呼んでもいいと思います。

今回、提案していただいた法案に「本籍地税に関する法律」「建築基準法の容積率と高さ制限強化法案」「人口密度適正化法案」などがありましたが、いずれも都市部に人口が密集することを押しとどめ、地方に人口を流入させようとする法律です。提案してくれた方は、過疎地の支局長ですが、憤まんやるかたない気持ちが表明されている法案ですね。

▲ 地方税には都道府県民税、市町村民税の2種類があって、居住地において徴収されていますが、「本籍地税――」は、この二つの税の一定割合を本籍地税として本籍地の市町村に配分するというものです。「建築基準法――」は、大都市での容積率や高さ制限を緩和するのは、都市の過密を一層進めるものになるから、反対に厳しくすれば、面積的に余裕のある地方に来ざるをを得ないという、一極集中を是正する逆転の発想ですね。地方に土地が余っているのに、これ以上、都会を過密にすることはないということですね。

● 「過疎地救済のための住民票移転に関する法律」も基本的な考え方は一緒ですね。一定の所得を超えた高額納税者は強制的に過疎地に住民票を移さなければいけないというものです。とにかく、都市に住む人たちに地方へもっと理解を持ってほしいという気持ちがひしひしと感じられる法律ですね。

本誌 絶対的独裁者がいるか、超国家主義の国でなければ考えられない法律ですが、そこまで追いつめられている気持ちは分かります。

 

マスコミの傲慢さにお灸をすえるための法律

本誌 マスコミのいいかげんさに腹を立てている人からの法律提案も多かったです。特に、テレビの番組に腹を立てている人は多いようです。報道の自由ということは分かるのですが、あまりにもイージーな番組には、何らかの規制、ペナルティーを科するという発想です。

■ 「マスコミ報道税」「テレビ取材規制法」というのが、それですね。政府の権力にくみするというのではなく、低俗番組の制作者に反省を促すというのが狙いなんでしょう。タレントを田舎の民家に泊まらせる番組がありますが、田舎の置かれている状況は理解しようともせず、ただタレントがいきなり田舎に現れて地元の人が驚くシーンを撮りたいと思っているようだ。腹が立つ番組です。

▲ 何軒訪ねても宿泊させてくれる家が見つからない場合がありますが、いい気味だと思ってしまう。いきなり見知らぬ家を訪ねて、泊まらせてくれなんて、図々しいにもほどがある。

● テレビ関係者には“テレビに出してやる”という傲慢な気持ちがあるんですね。何も無名人だけではなく、有名人だってテレビに出たがっている人はたくさんいますからね。

■ テレビで地方をテーマにしている番組って、意外に多いんです。総務省がスポンサーになっている番組もあるぐらいです。ただ、皮相というか、上っ面しかとらえていない。制作者、すなわち都市生活者の優越感がふんぷんとにおうのがイヤミですよね。

本誌 編集部にも時々、テレビ局から電話がかかって来るんです。“100歳を超えてもピンピンしている人がたくさんいる村を教えてくれ”とか、“奇抜なアイデアで億万長者になった人がいる田舎を教えてくれ”などという問い合わせです。「××テレビです」と名乗るけれど、よく聞いてみるとテレビ局の下請けの下請け、制作プロダクションのフリーの放送作家だったりする。面白ネタだけを探しているのであって、地方に対して一片の敬意も尊敬も感じられません。

▲ 彼らは視聴率のためだというけれど、とにかく何でも面白おかしく仕立てなければ気が済まない。最近はニュースなんかでも再現ドラマ風に構成したりしているけれど、余計なことはしないでくれと、言いたい。

■ しかし地方に行くと、テレビに出たおかげで地元の農産物が急に売れ出したとか、

観光客が来るようになったと喜んでいる土地も多いことも確かなんですね。みのもんたの番組で紹介されたら、1週間、電話が鳴りっぱなしだったなんていう話はよく聞きます。

● テレビの効果がプラスに働く場合はあるけれど、マイナスのほうが大きいんじゃないのかな。ある年配の漁師さんで、三日三晩、テレビ局に密着取材されて、揚げ句に放映中止になってしまったので失意のままに亡くなった方がいるということを、私は知人から聞いたことがあります。テレビに映るために洋服を買って、家をきれいにして、親戚一同に触れ回った揚げ句に没になってしまったのだから、立場がなくなってしまったんでしょうね。それを聞いた時、地方の純朴な人をテレビがもてあそんだような気がして、ひどく腹が立ちましたね。

本誌 テレビの悪口を言い出せばきりがないので、ここいらで次に進みましょう。

地域社会を再構築するための法律

本誌 この「大家族奨励法」というのは、いい線いっている気がしますね。地域コミュニティーの崩壊、核家族化が、家族の絆を希薄にして、さまざまな事件を生んでいるという側面があると思います。

● おじいちゃんおばあちゃんのいる大家族の家で育った子どもは、核家族で育った子どもとは情操的な部分で違いがあるように思います。年寄りの知恵はもっと継承されるべきだと思います。

■ じいちゃんばあちゃんだって、息子夫婦や孫たちと一緒に暮らしたほうが楽しいに決まっていますよ。

▲ いや、必ずしもそうとは言えないんじゃないの。嫁姑問題もあるし、たとえ親兄弟といえどもプライバシーがないのは耐えられないという人もいるから。それに、ここまで個人主義が進んでしまっては、再び大家族に戻るのは無理かもしれない。

■ 「大家族奨励法」というのは、何もみんなに強制するのではなく、希望する人たちだけに適用すればいい。例えば、住民税を減額するとか、大家族パスを発行して動物園や遊園地の無料優待や割引を受けられるようにするとか、いろんな施設の駐車場なんかでも優先的に利用できるようにすればいいですよね。

● 床屋さんなんかも割引したいね。それほどの恩典があるんだったら、多少煩わしいけれど、同居したほうがいいということになるかもしれない。それに、今の人たちは、昔の家制度を踏襲するというのではなく、現代らしい、賢い大家族の新しい付き合い方を発見してくれるような気がしますよ。

商店街の活性化に関する法律

本誌 商店街の衰退を止める法律提案もたくさんありました。本誌は以前から、「商店街の空き家の家賃低減の法律」というのを考えているんです。商店街がシャッター通りになっているのは、家主が家賃を下げないものだから入居したくても入れない人がいるんです。家主は、別にお金に困っていないから安い家賃で入居されるぐらいなら、むしろ空けておいたほうがいいと思っているんでしょうね。だから、空き家期間が長ければ長いほど、家賃の下げ率が増すような法律をつくって、空けておくよりは貸したほうがいいと思わせるようにしたらいいと思います。似たような提案で「まちなか減税」「空き家税」というものが提案されています。

●「まちなか減税」というのは、職住分離のために町の中心地が殺風景になったものを復活させようという狙いですね。昼は町の中心地で営業していても、夜は郊外の自宅に帰ってしまうから、夜は真っ暗になる。商工業者に「まちなか」に住むことを減税によって奨励してはどうかという提案です。

空き家は景観のためにも、よくない。町の光景を寒々しいものにしています。タダにしたって借り手がないという地域もあるだろうけれど、借りたい人がいるのに値段が折り合わなくって貸さないというのは、よくない。「空き家税」というのも、空き家にしている家主にペナルティーを科すという発想だと思います。

商業地ではなく農村の話だけれど、まじめに農業を営んでいる人たちは、耕作されないで何年も放置されている農地は、強制的に国が取り上げて再配分してほしいと言っています。バブルが弾けてもなお、日本は土地本位制なんです。だから商業地だろうが、農地だろうが、土地は手放さない。

▲ 商店街活性化については、「景観法」という提案もありました。日本は私権が強すぎるのか、自分の家はどう使おうが勝手だという意識が強い。たとえ自分の家でも町の中の一部だから、全体の統一感に配慮しなければいけないという意識が大切なはずなんです。ドイツでは、自宅の庭でも外から見えるところに洗濯物を干していると近所からクレームが付くといいますから、日本でも「景観法」をつくって、私有財産であっても、公共の価値を減ずる行為に制限を加えてもらいたいですね。

■ 日本の町並みが汚いのは、個人のエゴイズムの表れですよ。古い町並みにいきなりコイン駐車場ができたり、自動販売機が置かれたり、色だって周辺の景色から浮き上がるような色にしたり、まったく悲しくなる。

本誌 自分の家をゴミ屋敷にして、周辺に迷惑を掛けている人がいますが、私権も何も「景観法」で、さっさと整理できるようにしてもらいたいものですね。

国家公務員に、もっとしっかりしてもらいたいという法律

本誌 官僚に関する法律の提案も多かったです。「国家公務員現場体験義務法」「農林水産省の採用に関する省令」、激しいのでは「官僚罷免制度」というものまでありました。これはまるで最高裁判所裁判官国民審査並みです。

● 霞が関の役所の中で優秀というのと、実際の現場で優秀というのとは、本質的に違う問題だと思います。いい行政マンであることは、試験の成績なんかとは関係ないんです。いかに地方の現状を肉体的、精神的に感じることができるかということだと思うのですが、現在は、現場を知っている人よりも、法律や制度に詳しい人とか、目はしが利いて、口の達者な人のほうが出世するじゃないですか。

■ とにかく国家公務員になろうとする人には、受験資格として、受験前の一定の期間を地方に住むという提案は傾聴に値します。入省してから、地方に研修に出す制度は現在もあるようですが、これを試験の受験資格にする提案です。ただ住むというだけでなく、農業か林業などをやってもらうということだと思います。

▲ 私の経験から言っても、入省してからの研修では、官僚の看板を背負って行くわけでから、ちやほやされる。本当の現場体験はできません。

本誌 その他、直接、地域づくりには関係していないのですが、非常に重要だと思われるのは「すべての法律を時限立法とする法律」というのがありました。この法律を提案してくれた方は、地方公務員ですが、過去につくられた法律で、近年の事情にそぐわなくなったにもかかわらず、それに縛られている矛盾を感じているんでしょうね。

●大体、道路に関する都市計画とか、ダムや港湾などは20年とか30年前の昔に計画されたものが多いですからね。社会環境や自然環境が変わっても、昔の計画を押し通そうとしている。あまりくるくる変わっても問題があるけど、法律を柔軟に運用するという精神は大切だと思いますね。

特産品の振興と、教育や政治に関する法律

本誌 「農産物輸入関税化」に倣って、「域外作物関税化に関する法律」というのも面白い。地元で取れる作物と同じものがよそから入ってくる場合は、関税をかけるというアイデアです。国内版のセーフガードです。「地場産品使用条例」というものもありました。これは、その地域の公共施設や学校給食などは、土地の食材を優先的に使用しなければならないという提案です。
● 学校の給食などでは、かなり具体化している自治体はあります。気持ちは分かりますが、これは競争原理が働かないからコストが高くなるとか、消費者は安くていいものが手に入りにくくなるという批判が出てくるでしょうね。
▲ 賢い消費者が輸入野菜よりも国産野菜を選択するように、自分の村の作物を他の村のものより優先的に購入するという姿勢があればいいんだけどね。その上で、駄目な商品には厳しい注文を付けるのはいいと思う。しかし、日本人は自分の土地のものにむしろケチを付ける性向もありますね。
本誌 夕張市が話題になっているけれど、「集団移転法」「新しき村づくり法」という法律も提案されています。
● この二つの法案は、破綻した自治体などの負債をチャラにして、どこか新天地に集団で移住したほうがいいのではないかという発想のようですね。
▲ 土砂などで村の大部分が埋まった場合などは、復旧するよりも移転したほうがいい場合はありますね。しかし、山古志村を見ても、生まれた土地についての愛着は強いですから、なかなか簡単ではないでしょう。夕張市の場合は、行政も市民も、たとえ負債を帳消しにしてもらっても、新しい土地で新しい生活を築くエネルギーはもうないんじゃないでしょうか。
 それより、夕張市を非難している学者、マスコミ、政治家、評論家などに強制的に住んでもらうようにすればいい。産炭地の苦労を全然知らないくせに、きれいごとばかり言う評論家が多過ぎる。そのために、「言論家に己の発言に責任を持ってもらう法律」というものでもつくりたいぐらいですね。
■しかし、大型公共工事が少なくなったわけですから、特区としてまったく新しい村を開墾するという発想も面白いかもしれないね。既存の制度や法律を超越して、まったく新しい自治体をつくり上げるなんて、夢がありますよ。南の島をまるまる開発するとかね。
●まるで西部開拓か、現代の平家の落人部落ですね。
本誌「リバースモゲージ法」という提案もありました。これは、老人の地方居住を促進する。つまり、年を取って、いつまでもゴミゴミした都会には住みたくない、田舎に引っ越したいという老人がいるでしょう。そういう老人に、現在住んでいる家を担保にしてお金を貸す法律ですね。
▲ それなら家を売って移転すればいいじゃないかと考えますが、家を売るまでには時間もかかるし、手続きも面倒です。これだと、思い立ったらすぐ田舎に引っ越しできるというわけですよね。
本誌 これも地域づくりとは直接には関係ないのですが、「世襲制禁止法案」というものもありました。おそらく、日本ほど政治家が世襲制になっている国はないんじゃないか。「世襲制禁止法案」というのは、親の地盤を継ぐのは禁止する。親とまったく違う地盤から選挙に出るのは許されるという法律のようです。
 教育に関しては、「現代史を小中学校で教える条例」というのがあった、なるほどと思いましたね。日本史の授業で、奈良や平安の古代を長々と教えて、明治以降の近代史、昭和史をはしょるというのはばかみたいな話ですよ、どう考えてもおかしい。
■ 大陸への進出が自衛か侵略かという面倒な問題に、先生たちは巻き込まれたくないんじゃないの。
▲ 何も断定的に教える必要はないんです。客観的な事実だけを教えればいい。どう判断するかは子どもたちに任せればいいと思います。
■ そこが難しいんだよ。
本誌「高校野球部スカウト禁止法」は、県外からの選手をスカウトすることを禁止する法律です。地元出身の生徒が一人もいないのに、それで甲子園で活躍しても地元住民も、高校野球ファンだって、面白くないんじゃないでしょうか。
 高校生を対象とした法律では「高校生援農法」というものもありました。これは、高校に入学したら、半年間は全生徒を農業に従事させるというものです。どんな人生を選択するにしろ、長い人生で半年ぐらい農業を経験するのは貴重だと思いますね。
 ところで、法案を考えたり、法律をつくるって、面白い作業ですね。
● だから官僚たちは面白がって次から次と法律をつくるんだよ。かくなるうえは、「誰でも自由に法律をつくれるための法律」というのも必要になりそうですね。